「四天王」と装飾性

残るヴィクトリア朝古典主義の「オリンピアンたち」二人、アルマ=タデマとポインターとも、ウォッツは根本的に異質な画家である。

前者はオランダ出身であるが、ジョシュア・レノルズ卿以来の宿願であったアカデミズムの王道をレイトン卿やポインターとともにイギリス画壇に開花させて見せた。

アルマ=タデマの仕事は、歴史画のジャンルで徹底した遠近法と色彩の対照を駆使した華麗な絵画美を質量ともに最高レベルに引き上げる結果となった。

画布の二次元平面の中に眩暈を誘うような三次元的距離を内蔵して、見る者の度肝をぬくアルマ=タデマの遠近法は動かないアクロバットと呼べるものだが(後出①の『見晴らしの利く突角』図10参照)、

これは、同時代のイギリス国内だけでなく、ルネサンス以降の全西洋絵画の中でも屈指といわなければならないほどの完成度を示している。この点、これまで見たウォッツの一面だけをとってみても、あまりにもかけ離れた画業である。

後に示すウォッツの本領であると思われるバロック的な躍動の世界も、或る意味でアクロバット的ではあるが、アルマ=タデマのそれとは性質の異なるものである。

エドワード・ポインターはレイトンとアルバート・ムーアに共通する古代風の枠組みを用いた装飾性にその本領があり、ウォーターハウスの暗い優美さに明るさを掛け合わせたような女性美を探求している。

《ういういしい退廃》という自己撞着を敢えて美へと昇華した表現者として際立つものを持つ。このような特質もまたウォッツはまったく欠いている。

並行して考えておきたいのは、他の三人が晩年に至るまで次第に装飾性を強めたことと、ウォッツが象徴性と抽象性とを強めたこととがどうしても相容れないという事実である。この点から目をそらさなければ、三者とウォッツとをひとくくりにすることに違和感を抱くのが当然というものではないだろうか。