【前回記事を読む】「あまりに禁欲的な造形」繊細な女性の肌なのに、エロティシズムにはまったく無縁――人はなぜこの絵に惹かれるのか?

第一章「ヴィクトリア朝古典主義四天王」の異端児

『希望』〜人はなぜこの絵に惹かれるのか

空想的ファンタジーか宗教画か

半分しか見えないこの球体が仮に宇宙空間に浮かぶ惑星であるとすれば、このような視点から描かれた光景は純然たる空想的ファンタジーである。

ただ宗教画の世界には類似の例がある。赤子イエスを抱いた聖母マリアが月または地球を足下に踏んで立つ図像がカトリック世界では当たり前のように存在するからである。注1

時間と空間を統べ治め、人間を守護する神にも等しいマリアの威光を示すためである。しかしカトリック教徒でないウォッツの絵はそのようなマリア像の系譜に属さないはずであり、そうでなければプロテスタント国家イギリスで容認されるわけがない。

へたり込んだその横座りの姿勢からは別の連想も働く。これは物乞い像の系譜に属する姿勢であり、それに類するマグダラのマリアのポーズにも相通じるものがあるのだ。西洋美術史に長い伝統のあるマグダラのマリアの絵なら当然ウォッツの念頭にあったとしてもおかしくない。

しかしもちろん、改心してイエスに帰依した娼婦マリアの絵画表現につきものの妖艶さの記号はウォッツの絵にはない。否、薄布から肌が透けて見える点はきわどいかも知れない。

しかし、両眼を覆う鉢巻きや全体のあどけなさによって妖艶さは打ち消されているのだ。いつの間にか構図のおさらいから図柄そのものの吟味へと踏み込んでしまったようなので先を急ぎたい。

色使いと衣紋

色数の少なさ、抑制の効いたくすんだ色調はウォッツ独自のものである。言うまでもなく衣の襞は古代ギリシャ彫刻に発して遠く我が国の仏教彫刻に伝わった重要な意匠項目である。もちろん古代ギリシャ芸術を規範とする古典主義にとっても不可欠の要素である。衣紋はこの画家が幼少期から大英博物館所蔵のエルギン・マーブルズをデッサンすることによって体に染みついたほどのギリシャ芸術の影響である。

『希望』では、ヴィクトリア朝古典主義の画家の中でも特に衣の襞を強調したアルバート・ムーアの作品やウォッツの他の作品における襞の表現と比較して、柔らかく薄い素材にあまりにも深く高い襞が寄っている点でやや不自然な印象を受ける。

人体そのものが平板で、立体性の彫琢を欠いている点と併せて見ると余計に襞が目立つ。ヴォリュームの表現は影や重ね塗りによる透明感に依存している。顔面と右手甲の平板さも同じである。