【前回の記事を読む】「若年性多関節リウマチ」の私の高校デビュー!学園ドラマのような新鮮な生活に、ユニークな生徒たち

7章 退院後の学生生活

いざ、お受験!

高校三年生になり、進学を考える時期がきた。英語が好きだったので、将来は家でも働ける翻訳家になろうと考えていた。母が送迎してくれるので、私の短期大学選びの条件は母の生活行動範囲にあることだった。

その行動範囲以内に英語科のある短大の候補は二つあった。大阪女学院短期大学(女学院)と相愛短期大学(相愛)。両学校とも英語科のレベルが高かった。

姉が通っていた名門女子短期大学は自宅から遠すぎて候補からすぐに外れた。それに加え、キャンパスが全然バリアフリーではなかったというオチで、チャンチャンと終わってしまった。

ほんま、なんでやねん! 状態だった。結局のところ、憧れの姉が通っていた女子学校には最後まで行けなかった。これが最後のチャンスだったので少し挫折感を味わったが、やっぱり姉には勝てないと痛感した。それでこそ私の姉なのだ!

専門学校は選択肢には入っていなかった。誤解してほしくないため、ここで明白に述べておきたいのは、決して専門学校が悪いのではないということだ。

私にとって近所の人たちが「あの子、病気や障害があったから大学行かれへんかったんちゃう」と噂をするところを想像するだけでも鳥肌が立った。負けず嫌いというより、私は人目を気にする弱い子だったのだ。

私は女学院と相愛の受験に絞って、本格的に家庭教師を付けてもらった。第一志望は女学院だった。なぜなら、教員のほとんどが外国から来た教師で、授業も英語で行われているからだ。

女学院も相愛も英語一教科の試験だった。両学校の受験まで七カ月程度しか残っていなかった。その時点で私の英語の偏差値は目標の半分以下だった。私は家庭教師とお受験戦争に突入した。