【前回の記事を読む】顕微鏡、ミシン、藍染め…唯一無二の教育熱心な先生は、車イスの私に様々な体験をさせてくれた
7章 退院後の学生生活
大阪府立桃谷高校へ
下原先生は、私が通える理解のある高校を探すことに全面協力して下さった。候補は二つあった。
一つ目の高校は今はもう名前すら覚えていない。学校見学には下原先生も一緒に来て下さった。この学校は毎日の通学で体育の実技のクラスがあった。
私は実技はできないと理解を得ようとしたが、生徒たちはこの授業の単位を取得しなければならないと説明を受けた。この学校の対応も不親切だった。私にとって物理的に無理な高校だった。
次に下原先生が探してくれていた高校は、大阪府立桃谷高校だった。課題をこなし添削してもらう週三日登校の通信制高校だった。授業は午後一時から四時までだったと記憶している。私は無事に桃谷高校に入学した。
その当時、私の発熱、関節痛とこわばりの症状は小康状態だった。しかし、左手の指の骨は完全に変形し直角に曲がり伸ばせなくなっていた。右手は指の節々の骨が突起していたがグー・チョキ・パーはできていた。
字を書くことはしんどくなっていた。膝と股関節もほぼ直角に変形していった。腰は軟骨がすり減り一本の背骨になった。しかし、逆にぐらつきがなくなり安定した。
コルセットからも解放された! その代わり、腰の屈曲が困難になった。首の骨も一本の骨に固まり縦横上下にも全く動かすことができなくなったが、不幸中の幸いで、神経麻痺の可能性が低くなった。顎も変形し口開も狭くなっていった。
そんな病状だったので、桃谷高校の登校スケジュールは大変助かった。
「カンナさんなら、どこの高校に行っても立派に頑張っていけますよ」という下原先生の言葉にとても励まされた。
私が学校に通うのは一五歳のこの時が生まれて初めてだった。
ジャジャーン、高校デビューだ! 私は初めて黒板を見て日直さんにもなった。ホームルームの時間もあった。経験するすべてが新鮮で学園ドラマだった。