「そうだ、忘れないうちに……もじ、文字盤……買ってきて。ほら、お母さんしゃべれなくなるから……」と、唐突に母が言った。私はとっさに何と言って良いか分からず「なんで喋れなくなるの……」と、とぼけた。

「とにかく、文字盤……。指でさすの。『あ・い・う・え・お』って書いてるの。喋るのに、時間かかるからさ……、もどかしいのよ」
「でも、喋らないと訓練にならないだろ。俺だって吃るし、そういう時は切ないけど……。やっぱり、喋らなきゃ仕方ないじゃないか……」

母は下を向いて反論に窮した。

二〇一六年

一月三日(日)

無事に年越しは済み、母は新しい年を迎えた。そして、今日は個室への引越しの日である……。よく、ガン患者が個室に移されるといよいよだと言われるが、このたびはそうした特別なものではなく、加算料金も不要だというので母自身が希望した。

あれほどお喋り好きだった母なのに、失語症のため、近頃とんと口数が少なくなってしまい、前のように同室患者と交わる事を煩うようになってしまったのだ。それでも、三度の食事は大食堂で皆一斉にとるので、まだ多少のコミュニケーションはある。それに、他の人に気をつかわず、好きな音楽を聴くのには好都合であるとも言える。