第一章 青天霹靂 あと377日
二〇一六年
一月七日(木)
「去年の春にね……」
母が唐突に話を始めた。今日は身体の調子も気分も良いようであるが、それでも、このところ一日のほとんどを横になり過ごすようになっている。
「玄関の前に大きな毛虫がぶらさがっていてね、それで、(アパートの)隣の部屋の人がホウキで叩き落としてくれたんだけど。そしたら、落ちた毛虫が、身体をよじって恨めしそうにお母さんをずっと見ていたの……。それが今も忘れられなくて。あんな事しなきゃ良かったなー。かわいそうな事しちゃったのかな……」
話を聞きながら、井伏鱒二の短編小説「山椒魚(さんしょううお)」を思い出していた。
井伏氏も晩年、その古い小説を書き直し、閉じ込めた山椒魚を逃してあげたのだというけれど、命というものを見つめる域となった人の心とは、そうしたものなのだろうか……。
一月九日(土)
いつものように手足のマッサージをしてあげていた……。
股関節を開いたり閉じたり回したりと、そうしているうちに腸の動きが良くなってきたのか、母は私の顔前で無遠慮に大きな音をたて放屁した。
途端に母は大笑いし、「ハハハハ、アキの顔が屁まみれだぁー」と、大はしゃぎ。何とも、まるで子供のような母である。
この無邪気な笑顔を、いったいいつまで見ることができるだろうか。いつ、この笑顔を失ってしまうのだろう……。そぞろ、不安がよぎる。