【前回の記事を読む】潮を読み、帳面を開き、親子で語らう――花房藩・釣り役の家に満ちる団欒のあかり
第一章 鯛のしゃくり釣り
二
「お台所お借りします。スズキを切り分けなきゃいけません。ええ、でも鯛の事はお粂さんには言ってませんから」
一人喋りながら台所に向かう太平の後ろ姿に、昨夜の五月の言葉が思いだされた。
「太平さんて少し変ってるんです。思った事が直ぐに口に出てしまうんです」
「おやまあ」
「うむ」
会ったその日にその事は分かっている。それに、とても少しだとも思えない。
「えーと、あのですね、そのお……」
太平は板間に盥(たらい)を置き、その上にまな板を乗せて、百合に向かって座っている。
「今日は、お一人様、なのでしょうか?」
「はい、お一人様です」
百合が笑いをこらえながら答える。
どうやら太平にも、思った事をそのまま口にできない時もあるようだ。だけど、何を聞きたいかは顔にはっきりと書いてある。
「石動は釣りに出かけました」
少し意地悪をした。
「いするぎ? あ、ウマヅラさん」
石動の事なんかすっかり忘れていた。
「昨日はありがとうございました。五月からすべて聞きました」
意地悪はやめにした。
「え、あ、すべて、ですか」
太平の顔が見るみる赤く染まっていく。太平にとって昨日のすべてと言えば、五月の胸の膨らみと唇の柔らかさだけなのだ。
「五月は少し前にお店に戻りました。今日は、夕のお客様が早いのだそうです」
太平の顔に後悔が浮かぶ。
「あ、少し前ですか」
失敗した。焼かないで持ってくるんだった。
「太平さん、お水を一杯いただけませんか」
百合が太平に頼んだ。今日は何だかすぐに喉が渇く。
「あ、はい。すぐに」
土間に下りて、水瓶の蓋を開けた太平の顔が曇った。
この辺りは海に近いせいで井戸水に汐気が混じる。それで飲み水は水売りから買うのだが、貧乏長屋を回る水売りだ。元より上質でない物が、この二、三日の温気(うんき)で傷み始めていた。
「これは生はいけません。ええ、ついでですから」
何がついでなのかは太平にしか分からない。