寛弘五年十二月から寛弘六年正月の日記
十一月に二回出仕したためか、十二月の出仕は二日しかない。それで、いつもは書かれない出仕の際の心情と歌が書かれる。
師走の二十九日にまゐる。はじめてまゐりしも今宵のことぞかし。いみじくも夢路にまどはれしかなと思ひ出づれば、こよなくたち馴れにけるも、うとましの身のほどやとおぼゆ。(略)
年くれてわが世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな
とぞひとりごたれし。(一八四)
三十日の夜の引きはぎの件が詳しく書かれるのも、十二月の日記が二日分しかないためであろうと考えられる。翌年の正月の記事もすぐに終わってしまう。そこで作者は、正月の記事に続けて、「このついでに」と、日記を引き延ばすことにしたと考えられる。
正月の記事の後、日記を引き延ばすことは、十二月の日記を執筆する時から決めていたと考えられる。「このついでに」の後に、人のことや自分のことなど、書きたかったことをすべて書いて、ここで日記を終了することも、執筆の時から決めていたことだと考えられる。
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