【前回記事を読む】【紫式部日記】小説以上におもしろい?八月の日記が切り取った“物語のような日常”
第一章 紫式部日記
二 日記はいつ書かれたか
寛弘五年十一月――草子作り
作者は草子作りに使う本を局に隠しておいたのだが、これはいつから隠されていたのだろうか。おそらく十月に出仕した時に局に隠して、それ以来局に置かれていたと考えられる。十一月一日に本を取り寄せて局に置いても、すぐ草子作りが始まり、「局に隠しておいた」とは言わないのではないだろうか。
十一月一日の日記は夜の行事から書かれていて、この日も夜から出仕したとすると、続いて草子作りが行われたことが考えられる。彰子への献上本は十月に参上した時、あるいはそれ以前に献上されていたと考えられる。
「なぞの子もちが、つめたきに、かかるわざはせさせたまふ」と、聞こえたまふものから、よき薄様ども、筆、墨など、持てまゐりたまひつつ、御硯をさへ持てまゐりたまへれば、とらせたまへるを、惜しみののしりて、「もののくにて、むかひさぶらひて、かかるわざし出づ」とさいなむ。されど、よきつぎ、墨、筆など、たまはせたり。(一六八)
道長は彰子に、「冷たいのに、こんなことをしなくてもいいではないか」と言っているので、草子作りは彰子によって主導されているものであり、道長の主催によるものではないことがわかる。道長は作者に、「奥まった所で、向かいあって、こんなことをして」と責めているのであり、作者に草子作りを命じてはいない。
道長は局に本を取りにきたのであるから、新しい『源氏物語』を持っていなかったと考えられる。持っていれば、それを妍子に献上するか、もう一部姸子のために書写することができたはずである。道長は、作者にもう一部書写するように命ずることもできず、元の本をくれとも言えなかった。
草子作りが終わった時点で、『源氏物語』の原本は三部ある。作者の原本と、一条天皇への献上本、彰子への献上本の三部である。この三部の内容が同一のものであったことは認められることであろう。最初のころの書写は、この三本を起点として、問題なく行われていたと考えられる。
作者は少なくとも二部の清書を行ったと考えられるが、作者とその物語仲間の存在を考えると、作者は物語仲間のためにも一部書写したことが考えられる。草子作りが行われたころから、作者の周辺の物語仲間による書写も広がっていったのではないかと考えられる。