【前回記事を読む】【紫式部日記】大晦日の晩、宮中で強盗事件が発生! 現場へ行くと衣を奪われた2人の女性が震えており――

第一章 紫式部日記

二 日記はいつ書かれたか

寛弘五年十二月から寛弘六年正月の日記

寛弘六年正月と寛弘七年正月の日記は、ともに一日から三日の記事を持ち、この二つを比較するとわかることがある。

寛弘七年正月の三日の日記の後に、次のように書かれている。

あからさまにまかでて、二の宮の御五十日は、正月十五日、その暁にまゐるに、(二一八)

一月十五日の前に、少し里に帰っていたと言う。

作者は一月十日ごろまで内裏にいて、その後、再び十五日に出仕している。一月四日から十日ごろまでは出仕していても何も書くことがなかったのである。

寛弘六年正月も、十日ごろまで出仕していても何も書く材料がなかったと考えられる。作者が日記を閉じることにしたのも、二月以後何も行事がなかったからだったと考えられる。

八月からの日記の行数を比較すると、十二月一月の日記の行数が少なかったことがわかる(表参照)。

写真を拡大 各月の行数 寛弘5年8月〜寛弘6年1月

十二月一月の五日間の記事は、これまでのどの月の日記よりも短い。十一月一日の一日の行数にも及ばない。何か書き足そうと思うのももっともだと思われる。

書き足した「このついで」以下は、結局十一月の日記よりも長くなった。