日記の返却と訂正
寛弘六年正月に、作者は日記の返却を求めている。しかしこの時は返却されず、二回の日記の追加の後、寛弘七年正月以後に、日記が返却されたと考えられる。
作者は返却された日記を読み返して、いくつかの書き込みや訂正を行っていると考えられる。その時期がわかるのは、寛弘六年正月に書かれた赤染衛門の呼び名が、後に訂正されたことによる。
丹波の守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡(まさひら)衛門とぞいひはべる。(二〇一)
赤染衛門の夫、大江匡衡が丹波の守になったのは、寛弘七年三月三十日であるから、この説明が書かれたのはそれ以後である。
日記が返却されたのは、寛弘七年三月三十日以後である。寛弘五年に書かれた次の六つの官職も後に書き換えられたと考えられる。
① 播磨の守、碁の負態(まけわざ)しける日、(一二六)
八月十九日以前の記事。
播磨の守は、平生昌(なりまさ)だと考えられ、播磨の守になったのは、寛弘六年三月二十日である。
② 美濃の少将済政(なりまさ)などして、遊びたまふ夜もあり。(一二七)
八月二十余日の記事。
美濃の守は、源済政を指すが、済政が美濃の守になったのは、寛弘六年以後とされる。
③ 御湯殿 (おほんゆどの)は酉(とり)の刻(とき)とか。(略)尾張の守知光(ちかみつ)、(略)御簾のもとにまゐる。(一三八)
九月十一日の記事。
尾張の守知光は、藤原知光で、寛弘七年三月に尾張守となっている。
尾張守知光は、織部正親光(ちかみつ)の誤写であるという説もある。織部正親光であれば、『御堂関白記』の寛弘五年十月十七日の条に見えている。
④ 大式部は、陸奥の守の妻、殿の宣旨よ。(一四四)
九月十五日の記事。
陸奥の守は、藤原済家(なりいえ)で、済家の陸奥の守任官は、寛弘六年正月とされる。
⑤ 四条の大納言にさしいでむほど、(一四六)
九月十五日の記事。
四条の大納言は、藤原公任。公任の権大納言昇進は、寛弘六年三月四日である。
⑥ 侍従の中納言、(一七四)
十一月十八日の記事。
侍従の中納言は藤原行成で、行成の権中納言昇進は、寛弘六年三月四日である。公任と行成は、同日の昇進である。
公任は、この後寛弘七年正月二日の記事、同十五日の記事で四条の大納言と呼ばれているが、寛弘五年十月十六日の記事、十一月一日の記事では左衛門の督と呼ばれていて、作者はすべての官職を厳密に書き直したわけではない。
読み直して、たまたま気づいた所を訂正したということであろうか。