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【第一章】食を巡る冒険
我がドリアン記念日
この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日
俵万智
大学卒業後、およそ二年間勤めた商社を退職し、その翌年の一九七八年春、外務省に入省しました。外務研修所および外務本省における一年半にわたる国内研修を経た一九七九年の夏、外務省派遣の語学研修生としてのタイのバンコクにおける在外語学研修が始まりました。
バンコクでは、王宮のチトラダー宮殿近くにありながらも、下町情緒の強いラーチャワット地域内にあったタイ人家庭に下宿しながら、タイ語学校とチュラロンコーン大学政治学部国際関係課程にて約二年間にわたるタイ語研修生活を過ごしました。
それは、まさにその期間中の出来事でした。ドリアンという摩訶不思議な南洋独自の果物に遭遇したのは。
ドリアンは、その表面が大きくかつ鋭い棘のある硬い皮で覆われ、数ある果物のなかでも絶対無二・面妖怪奇の異形(いぎょう)を誇っています。
世界有数のドリアン産出国であるタイ。タイの人たちは、その異形はともかく果物の一流ソムリエでさえも形容し難い耽美的な香り、また、その的確な表現を拒んでしまうほどの美味ゆえに、心からの敬意を表すため、「果物の王様」との尊称を与えているほどです。
私自身、ドリアンの独自の香りに関しては、あまり芳(かんば)しくない評価があることを知っていました。しかし、「果物の王様」という尊称を得ていることもあり、ドリアンに対しては、淡い期待感を抱いてタイ国に足を踏み入れました。期待というものは、裏切られるのが世の常ではあるのですが。
期待はずれ。その言葉通り、初めてドリアンを口にした私のドリアン初体験は、語るも無残、幻滅のうちに幕を閉じていました。「果物の王様」、その名にふさわしいと思えるような味はまったく感じることなく、只々、発酵食品に近いようなその独特の匂いに圧倒されただけでした。
「エーッ、これが果物の王様だって」と、意気消沈したことだけは妙に覚えています。多分、ドリアン初体験者の多くは、私と同様の感想を抱いたのではないでしょうか。そのときは、私の人生、その将来において、どう転んでも身銭を切ってまでドリアンを食することは、皆無であろうと断定したほどでした。