【前回の記事を読む】女性を巡って臣下と争った武烈天皇……問題となるのは史実と大きく異なる“年齢”だ
序章
「“冬十一月十一日、大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)が太子に申し上げるのに、「真鳥の奴をお討ちなさい。仰せがあれば討伐いたします」という”
“そして大伴大連が兵を率いて自ら将となり、大臣の家を囲み火をかけて焼き払った”
“真鳥大臣は自分の計画の失敗を知り、逃れがたいことを悟った。計画は挫折し望みは絶えた。広い海の潮を指さして呪いをかけ、ついに殺された。科(とが)はその一族に及んだ”
“十二月、大伴金村連は賊を平定し終わって、政を太子にお返し申した。尊号を奉りたいと奏上して、
「いま、仁賢天皇の御子は、ただ陛下だけであります。人民たちの上に頂くところは、二つあったことはありませぬ。また天の御加護で仇(あだ)を払い除きました。英略雄断は天皇の威光や天皇の位を盛んにしました。
日本には必ず王(きみ)がおいでになります。日本に王があるとしたら、陛下でなくてだれでしょう。伏して願わくは、陛下は天地の神にお応えして、大きなみことのりを弘め宣べ、日本をお照らし下さい。大いに銀郷(たからのくに)をお受けください」といった。
そこで太子は役人に仰せられて、高御倉(天皇の玉座)を泊瀬(はつせ)の列城(なみき)に設けて即位をされた。そして都を定められた。この日に大伴金村連を大連(おおむらじ)とした”
“元年春、春日娘子(かすがのいらつめ)を立てて皇后とした”
“二年秋九月、妊婦の腹を割いてその胎児を見られた。
三年冬、十月、人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた”
“四年夏四月、人の頭の髪を抜いて樹の頂きに登らせ、樹の本を切り倒して、登った者を落とし殺して面白がった”」