「神功皇后紀」は、三十九年、四十年、四十三年の条に「魏志(ぎし)に云(い)はく」として倭の女王の遣使や魏国からの遣使の記事を引用、また六十六年条では「晋の起居(ききょ)の注に云(い)はく」として倭の女王の遣使の記事をそれぞれ分注で紹介している。

そしてそこには、「神功皇后紀」の紀年に対応させて中国王朝の紀年がそれぞれ記されているわけである。

したがってこれらの引用記事の通り、「神功皇后紀」の年次毎に中国王朝の年次をそれぞれあてはめていけば、「神功皇后紀」はその紀年を使用したままで実年代の年表として利用が可能になるわけである。

つまり、『日本書紀』は、その紀年の基準年(第一の基準年)を、「神功皇后紀」の年表の中に確保したわけである。

「関連年表Ⅰ(年表①②③)」の年表①を参照してほしい。歴代天皇の即位年や崩年、また年毎の記事が年次を追って実年代で表記されているのは、「神功皇后紀」の紀年に基準年が確保されたからに他ならない。

写真を拡大 参考 関連年表Ⅰ(年表①②③)

神功三十九年は魏の景初三年に、さらに魏の景初三年は西暦二三九年に当たる。このことから逆算すれば、『日本書紀』に関わるすべての年表は、中国王朝の紀年によって、さらには西暦を使用して実年代で示すことができるわけである。

『日本書紀』が「神功皇后紀」三十九年条に、「是年也、太歳己未(つちのとひつじ)」とわざわざ干支を記したのも、この年が「神功皇后紀」、さらには『日本書紀』にとっても、紀年の基準年となることを示したものと考えて間違いないだろう。