中舞鶴 八月十三日
鉄道幻影
感謝したくなるような、蒼空だった。
どこまでも歩いていける、そんな高揚感に満たされながら、東舞鶴駅前の三笠通りを西へ向かった。かつての中舞鶴線の線路跡は、今は遊歩道に整備され、三笠通りの途中から北西へ延びている。
中舞鶴線は、戦前は軍民共用列車として、新舞鶴から軍事施設の密集する中舞鶴まで走っていた。
戦後も昭和四十七年十一月の廃止まで、地元民の足として活躍した。
今日は、失われた鉄道の軌跡を辿って、古の軍都の中心部をめぐろうと思う。
三笠通りは、駅頭から三百メートルも行くと徐々に道が狭まり、山麓の三笠小学校の門前で唐突に終わった。途中の遊歩道の始点を見落としてしまったらしい。ホテルでもらった「東舞鶴市街図」に目を凝らし、通りを引き返す。
舞鶴共済病院の建物脇から延びている小道がそれのようだった。遊歩道の始点に、線路跡を示す説明板が立っているものと思い込んでいた。それらしいものが目にとまらなかったので通りすぎてしまった。
遊歩道は、緑樹の滴る西の小山に沿って延びていた。
歩き始めてすぐに、正面から走ってきた自転車の男性に、こんにちは、と声をかけられた。すれ違うほんの一瞬のことで、慌てて、こんにちは、と返したが、先方さんに聞こえたかどうか。東舞鶴は小さな街だ。地元の人は、初見の人間をすぐに旅行者と解すのだろう。ちらと見えたお顔からして、年配の方だった。迎意への返礼が届いていたらいいのだけれど。
東側の住宅街の細道から、何組もの喪服姿の家族連れが遊歩道に立ち入ってきた。懸崖を見ると、叢(くさむら)のあちこちに墓石が覗く。お盆の墓参りらしい。
正面に、黒ずみを帯びた荘重な煉瓦造りのトンネルがあらわれた。上部中央の「北吸トンネル」というそこだけ真新しい名称板が、煉瓦全体の褪色を際立たせている。真っ暗で冷気の充満した内部は、すでに汗ばんでいた体に心地よい涼だった。百メートルほどのトンネルを抜け、出口の煉瓦塀を振り返ると、右隅に「登録有形文化財 文化庁」というプレートがはめられていた。
今度の旅に持参した、もう一枚の古地図をリュックからとり出す。「昭和十八年版 舞鶴軍港測量図」。
舞鶴湾港と陸地部分の地形を、鳥瞰的に網羅した尺度の大きな地図で、新舞鶴の市街地から中舞鶴までの経路、軍事施設の名称も記されている。ここからは「新舞鶴市街図」と「舞鶴軍港測量図」を頼りに歩こう。
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