エピローグ 愛された記憶の行方

「おはようございます、加藤さん」

優しい女性の声で目を覚ました。

「昨夜は久しぶりに熟睡できたようですね。幸せなご家族とのシミュレーション、いかがでしたか?」

視界に広がるのは白い天井。カーテンで仕切られた無機質な部屋。機械の音、薬品の匂い。腕には点滴が刺さり、手の甲には、染みと深い皺が刻まれていた。

ゆっくり身を起こし、手鏡を覗くと、そこに映っていたのは、八十を超えたかのような老人の顔だった。髪の毛のない頭皮は鈍く光り、かつての自分の面影はどこにもなかった。

看護師は、簡易テーブルに朝食のトレーを静かに置いた。それは、妻が作ってくれた料理の匂いとはまるで違う、食欲をそそらない流動食ばかりだった。

「加藤さん、ご希望があれば、また新しい体験を味わっていただけますので、お申し付けくださいね」

看護師は優しく語りかけた。

「加藤!? 私の名前は、柴田淳太ですよ」

かすれた声で抗議すると、彼女は、点滴を交換しながら呟いた。

「どっぷり幸せな記憶を体験できてよかったじゃないですか」

手首のリストバンドには『カトウ タイチ』と刻まれていた。

俺の記憶では『シンクロ』は、余命わずかな患者の終末期ケア用アプリだった。ということは、俺の命ももう残りわずかだというのか。

これもシミュレーションなのか? まさか朱莉や心春さえ存在しないのか?

「なぜ、俺はここにいる?」

そう問うと、看護師は色褪せた一枚の写真を指差した。

「加藤さんはずっと独身で、ご家族もいらっしゃらなかった。お仕事も、工事現場を転々とされて……。でも、どんなに辛くても黙々と真面目に働かれていたそうです。お見舞いに来た元同僚さんが話してくれました。

ただ、この数か月で病魔は急速に進行して、とても苦しそうでした。終末期の胃がんです。医師の見立てでは、長くは生きられないと」

写真を渡されると、そこにはヘルメットに汚れた作業着をまとった、六十代くらいの『俺』が写っていた。

いや、これは現実ではない。この孤独な病室も、終末期をシミュレーションした虚構に違いない。

ふと娘の言葉が脳裏に蘇った。

「ある事象に対して、生成AIと会話しながら、本来の目的に導くシミュレーションをしている」

俺は「AIが出した結果をどう使うか、それが問題だ」と答えた。俺はAIが示した『幸せな人生』を、ただ浪費してきたわけじゃない。現実の孤独や痛みから逃げるための麻薬でもない。まだ、その本当の目的に気づいていないだけだ。

俺は静かに目を閉じた。次に目覚めるのはどんな世界なのだろうか。

今はただ、目覚めることそのものが恐怖だった。

いや、そもそも両腕に端末をつけていなかった気がする。

もしかして、これこそが単なる夢なのでは?

確かめる間もなく、意識は闇に落ちていった。

本連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。

 

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