須磨谷志保エピソード
柴田氏の言葉が、私の心を過去へ引き戻した。
白い無機質な検査室で聞かされた宣告。
「検査の結果、残念ながら染色体異常が原因でしょう。正常な男性(XY)のY染色体には、精子を作るために必要な遺伝子群があります。その一部が欠失しているため、健康な精子は作られません」
医師の淡々とした声が現実を突きつけた。
隣に座っていた夫は顔を歪め、やがて私を直視できず、自責の念に沈んでいった。
「なんで俺なんだよ……」
膝に顔を埋めた夫の肩に手を置こうとしたが、その手は払いのけられた。
「もういい! 触るな! どうせ俺が悪いんだろ! 全部俺のせいなんだろ!」
彼は、自分の身体的欠陥を、私への罪としてしか捉えられなくなっていた。
子供ができない悲しみは、本来二人で分かち合うものだったはずだ。だが夫は、それを自分だけの悲劇に閉じ込め、酔いしれ、自暴自棄になっていった。
柴田氏のように、未来に可能性を見出す選択肢は、残されていなかった。
「第三者の精子提供だと? 生まれてくる子供の半分は君の遺伝子だから、何の躊躇(ためら)いもないかもしれないが、俺の立場はどうなる? 蚊帳の外か? 自分の遺伝子のない子供など、断じて愛せない!」
激しい口論の末、二人の関係は修復不可能になった。
そして今、目の前にいる柴田氏も、夫と同じ境遇の男性だ。
彼も、心の奥で苦しんでいるのかもしれない。
だが私の夫と違い、彼は他人の欠陥を「前向きに擬似体験したい」などと語る。その姿は、偽善者にしか見えなかった。
夫を説得できなかった悔しさと、自分だけ取り残されたという孤独。その痛みが歪んで、あんな残酷なシミュレーションになってしまった。
「そんなつもりでは……あくまでAIのシミュレーション結果なので」
彼女は言葉を飲み込み、唇がかすかに震えていた。
「何のチェックもせず、AIが出した結果をそのまま垂れ流す。それがこの治験の目的ですか?」
彼女の表情に、困惑と弁解が入り混じり、悲しい影が覆った。
次回更新は11月6日(木)、21時の予定です。
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