【前回の記事を読む】「ばあちゃんはふだん優しいんだけど……怒ると、痛い」と口をそろえる孫。手が早いけれど…婆ちゃん子の孫たち
老話
湖上の鈴音
ある年のこと、農協の集まりで毎年旅行が企画されているが、いままでハルたちは参加したことがなかった。珍しく峯司が一緒に行こうと誘った。今年は豪華に沖縄だった。初めて出かけた夢のような楽しい旅。沖縄の海はスカイブルー、竜宮城にいるような初めて見るサンゴ礁、自分は浦島太郎になってしまったのかと錯覚を抱いた。
日本は広い。北海道の北の端から、南国の沖縄、言葉も食べ物も文化も違う。長生きはするものだ。良いことがある。ハル夫婦は自分たちの健康に感謝した。
しかし、旅行から帰ってきてしばらくすると、ハルの体調がおもわしくない日々が続いた。八十歳、無理もない。ヘルニアで高齢ですからと医者はなぐさめるが、痛み止めを飲んでしのいでいる。その後も入退院を繰り返していたが、体調が良さそうな日にドライブがてら近くの温泉に行こうと峯司が外に連れ出してくれた。
網走湖の湖畔にあるキャンプ場。遅いお昼ごはんに、おにぎりとトウモロコシを簡易コンロで焼いて醤油をかけた。
「焼けた焼けた。うまそうだぞ。たまには外もいいべさ」
峯司の声が聞こえなかったのか、ハルは湖の岸をぼんやりと眺めている。
「いま鈴の音が聞こえなかったかい?」
「なんも聞こえんぞ」
「いやーだ、懐かしくって、空耳? 気のせいだね」
峯司が呆けたのかとハルの顔を覗く。
「ここからだわ、幌馬橇(ほろばそり)で、氷の上を渡ってさ。近道したのさ。シャンシャンシャンシャン馬の鈴鳴らして、雪降る中、嫁に来たんだ」
ハルはうっすら涙を浮かべ、想いにふけっている。
峯司もハルの顔を見てもらい泣き、隠れて涙した。結婚してもう六十年以上になる。楽しいこともたくさんあったが、もうだめかと思うような厳しいこともいくつもあった。六十年なんて長いようであっという間、二人は八十を超えた。
「日が陰ってきたら少し冷えてきたな」
峯司が車の中からカーディガンを取り出して羽織った。
「懐かしい」
ハルは思わず手を止めて峯司の姿を見つめていた。
「なんかおかしいかい」
怪訝に思った峯司は自分の姿を眺め直す。
「丁寧に着ているから、貫禄付いたわ、そのカーディガン」
「ああ、あんたが見初めてくれたカーディガンだもの、大事に着てるべさ」
峯司とハルはお互いに照れ笑いをした。しかし、峯司は決してハルには明かせない重大なことを胸に納めていた。