【前回記事を読む】アウンサンスー・チー国家最高顧問の父で、国民から国父と呼ばれたアウンサン将軍は暗殺された。
第1章 最後のフロンティア
昭佐(しょうすけ)編―昭和の旅路
それはある日、事務所で両手に書類を抱えて、慌てて席を移動しようとしていたときの出来事だった。突然、オフィスの女性スタッフ全員から一斉に悲鳴が上がった。なんと席を立った瞬間、僕のロンジーが見事に足元に落ちてしまったのである。僕は反射的に英語で
「安心してください! 穿いてますよ!」
と叫んでみたが、ミャンマー人女性スタッフたちにはまったく響かなかった。
僕はすぐにロンジーを着直し、問題ないことを必死にアピールして、なんとか事なきを得た。騒動の後、ミャンマー人の同僚に聞いてみたところ、「外国人だから許してくれたのだと思います」と言われた。
失敗もあったが情報誌の仕事では多くの出会いがあった。僻地に単身乗り込んで医療活動と啓蒙活動を行う女医、麻薬の栽培で生きてきた少数民族に蕎麦の生産方法を伝えようと奮闘する団体など、さまざまな分野で魅力的な人物を知ることができた。出会いと学びのある仕事はとても楽しく、契約の四ヵ月間はあっという間に過ぎていった。
ミャンマー人スタッフたちは、新任の日本人プロデューサーが口だけの人間かどうかも見ていたと思う。結果、彼らは僕の依頼にはよく応えてくれた。彼らの協力を得られたことが僕の仕事の成功に直結した。現地スタッフは、日本からやってくる企業の経営者、事業部門の責任者、工場長、職人をよく見ている。
誰が手本になるか、日本人から何を学び取れるか、その感覚は鋭敏だ。特に、この国の文化を理解しようとする気持ちがあるかどうかは、現地人には感覚で悟られているといってよい。僕には彼らの静かな瞳が、そう言っているように見えた。
業務には取材仕事もあった。初の取材はヤンゴン国際空港の北、ミンガラドンの日本人墓地の記念式典だった。式典は全日空ヤンゴン支店長の挨拶で始まり、そのなかで、太平洋戦争で命を落とした人々への慰霊をする場所はアジア各地に存在するが、ヤンゴン日本人墓地が最も整備されていること、その前年にはアウンサンスー・チー国家最高顧問訪日時、天皇陛下表敬訪問で、陛下から御礼の言葉があったことが紹介された。
「この施設を維持するにあたり、地元の皆様のご協力に感謝すると共に、縁あってこの地で私達が仕事ができるのも、先代の努力があってのこととあらためて感謝致します」
挨拶はそんな言葉で締めくくられた。取材後、僕は日本から持参した線香をお供えして墓地を後にした。