【前回記事を読む】戦争で一番大事な武器はそろばん。「覚悟も大事だが...」かつて海軍大尉だった伯父の言葉に納得した。
第1章 最後のフロンティア
昭佐(しょうすけ)編―昭和の旅路
「國分先輩、この前、ヤンゴンのシャン料理のレストランから投稿したでしょ。こっちに来ているのにこの私に連絡がないなんて、どういうことですか!」
「あ、そうだったな。すまんの」「そういう感じ、全然変わらないですね。実はこっちの情報誌でイベントプロデューサーを探していると相談されまして、先輩がミャンマーに来ているなら、もしかして手伝ってもらえるかなと思って」
「そうだったのか。今回は直ぐに帰国してしまったから今はもう日本だけど、ミャンマー好きだし、それいいかも」
久しぶりの後輩からの誘いが、日本でのしがらみを断ち切ってくれそうな気がした。そのとき、僕はすでにミャンマーに行くことを決めていたのかもしれない。
それから一ヵ月後、気が付くと僕はヤンゴンに降り立っていた。
タクシーの車窓の先に、黄金に輝く巨大な竹の子のような形が見えてきた。ミャンマーのシンボルともいえる「シュエダゴン・パヤー」だ。ビルマ語で仏塔を意味する「パヤー」は英語では「パゴダ(Pagoda)」という。
ミャンマーのタクシー運転手にはこのパゴダの前を通るとき、運転中でもハンドルから手を放して合掌する人がいる。それもまたミャンマーに来たと思う瞬間だ。
ビルマ仏教寺院の中心にある純金のパゴダは二千六百年前が起源だというのだから、日本国そのものと同じくらいの歴史を持つ。この街でお世話になるなら最初に参拝すべき場所だった。
僕は、タクシーの窓越しにパゴダに合掌し、「よろしくお願いします」と心のなかで唱えた。タクシーが「アウンサン廟(びょう)」の前を通り過ぎた。アウンサンスー・チー国家最高顧問の父親で、国民から国父と呼ばれ尊敬されている暗殺されたアウンサン将軍の墓所だ。
別名「殉難者廟」とも呼ばれている。目的地のホテルはその近くだった。五分ほどでタクシーはヤンゴン・グローバルホテルに到着した。正面玄関横にはビルマ戦線の犠牲者の慰霊碑、その奥には出雲大社の分社も見える日系のホテルだ。
僕を雇い入れた地元情報誌は日本からの長期滞在者のために市内のホテルと契約をしていた。
チェックインするなり僕は堀部オーナーにワインバーを案内され、気付いたら三時間もご馳走になっていた。ようやく部屋に入ると、迎えてくれたのは一匹のヤモリだった。
彼は日本のヤモリと違い「キュッキュッ!」と鳴く。初めて聞いたヤモリの声には驚いたが、このヤモリの声とともに、僕のミャンマーの物語は始まった。この時点では自分がこの国に身を焦がすような想いを抱くことになるとは思ってもいなかった。