第1章 最後のフロンティア

昭佐(しょうすけ)編―昭和の旅路

昭和十二年、神奈川県湯河原(ゆがわら)町の梅林が彩り始めたころ、國分昭佐(こくぶしょうすけ)は娘を授かった。

娘には寒中にも開花を願って梅乃(うめの)と名付けた。昭佐の故郷は福島県の棚倉(たなくら)町だった。

戊辰戦争では白河の関で一族は激しく闘ったがその後は長い冬の時代だった。やがて一族は神奈川県の真鶴(まなづる)町へ移転した。

その年の七月、北京郊外の日本軍に数発の銃弾が撃ち込まれたとして、中国と日本は全面戦争へと突入した。盧溝橋(ろこうきょう)事件である。

翌十三年暮れには、英国船スクンホール号がビルマのラングーン港に入港し、インド人苦力(クーリー)を総動員して六千トンに及ぶ武器、弾薬が極秘に陸揚げされた。

ラングーン郊外のミンガラドン飛行場には、ビルマの援蒋(えんしょう)ルート防衛を目的に一万余の米国軍兵士が派遣された。すでに英米と日本の戦争はビルマで始まっていたのである。

梅乃が三歳となった頃、南方の親戚から昭佐に事業を手伝いに来るようにと電報が届いた。昭佐は、母・雪乃(ゆきの)から手渡された短刀一振を持ち、横浜からタイへ向かう船に乗った。

会津武士の魂の宿る刀が守ってくれると信じたのである。

昭和十五年七月、政府は「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定して南進論を選択。同年九月、日本軍は北部仏印に進駐し日独伊三国同盟が成立した。

十月、米国の屑鉄対日輸出禁止が決定された頃、昭佐はタイに渡った。昭佐(しょうすけ)は、伯父の指示のとおりバンコクの明神(みょうじん)新聞泰国支社を訪ねた。