【前回記事を読む】ミャンマーは「最後のフロンティア」ともてはやされ、日本から多くの企業や個人が集まった。僕もその一人だった。
第1章 最後のフロンティア
昭佐(しょうすけ)編―昭和の旅路
僕の退社が認められると、その瞬間から自問自答が始まった。本来の自分のやりたいこととは何だったのか。僕の場合、儲けることだけでは熱い思いは湧き上がってこない。
今回、僕はこうして何かのご縁でミャンマーに来られたのだから、ミャンマーを素材にした物語が創れないか、それを映画にできないかと考えていた。それが、自分のやりたいことに違いなかった。
この時期、お世話になった方々にご挨拶といいながら飲み歩いたりもした。そんななかに、現地の広告代理店に勤める人で熊のような身体の桑野万次郎(くわのまんじろう)さん、通称クワマンさんがいた。その日も彼の行きつけの店で大量のビール瓶のなかに埋もれながらクワマンさんと飲んでいた。
「これで、ようやくまとまった時間がとれそうなので、いい機会なのでミャンマー国内を旅してみようかと思うんですよ」
「いいですねえ! どこ行くんすか? 付いて行っていいすか?」
「未だ場所言ってないでしょ。そうですね。映画を撮るヒントになるような、要はシナハンですかね」
「なるほどね、釣竿持っていかな」
本当は、行きたい場所は決まっていた。そこはミャンマーとインドの国境のチドウィン河の西側にある「カレーミヨ」だ。そこはかつて悪名高いインパール作戦で「白骨街道」と言われた場所の入口だった。すでに酔いつぶれて戯言しか言えなくなったクワマンさんを横目に思い浮かんだのは、前に古い映画で聞いた戯言だった。
「ジャワは極楽、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」
どうして僕がそんな地獄を見たいと思うのかは自分でもわからない。ミンガラドンの日本人墓地を取材したときもそうだったが、そこに行きたいというより、行かなければならないという衝動みたいなもので説明はできない。
クワマンさんの上司はミャンマー人だったが、僕がカレーミヨに行って来るというと、
「あそこは出るらしいよ。日本軍の亡霊が」と一言を添えて、送り出してくれた。