【前回の記事を読む】母の晩年の趣味は、草花を育てること、育てた草花の写真を撮ること、俳句を作ることだった
第四話 母の思い出
百日紅亡夫に会いたしとふと思う(きよこ)
百日紅の木の前で白い開衿シャツを着て、微笑んでいる痩せた父の写真(多分私の撮影)が母のお気に入りで、ずっと仏壇に飾ってあった。
母は八十歳の時から毎年一月一日に十年間俳句集を出してきた。もちろんそれ以前から俳句は作っていたが、母から「傘寿記念に何か形になるものを残したい」と申し出があった。長い準備期間を経て「山茶花」という名の俳句集が完成した。山茶花は母が一番好きな花の名だという。
原稿作りは夫と私が担当。製本は印刷業をしていた母の末の弟にお願いした。それまでに書き溜めた花の句八十句の他、正月、春、夏、秋、冬、合わせて百二十八の句を載せた。花の写真や、子どもたち四人からのお祝いのメッセージも添えてある。作業は大変だったけれどあの時作っておいてよかったとつくづく思う。
それ以来、小冊子ながら九十歳まで発行してきた。各俳句集には花の名前から取ったタイトル。毎年一月一日付で俳句集を出し続けることは、母の生きがいになっていたことだろう。手元に色とりどりの表紙の十冊の俳句集が残っている。
今母と同じ俳句を趣味とするようになり、しみじみと母の俳句集を読み返しているところである。子育てが全てだった母が、自分の趣味を見つけ精進していく、そんな過程を思い浮かべる時、生き方はそれぞれ違っていい、自分らしい生き方を探すことができればそれで上出来、だと思う。
九十七歳まで母は自分らしい生き方を通してきた。私たち四人の子どもに生きるお手本を見せてくれた。そんな母の子であったことを誇らしく思っている。
第五話 あなたと私
夫は八十八歳八ヶ月で逝った。あなたと私の五十年間の物語。
物語の始まりは私が二十二歳の時。新潟県長岡から上京し、小学校の教員となった。O区の初任校で同僚として出会った。
夏休みのある日プール指導の後、お茶に誘われた。もう一人の教員と一緒だったので、何も考えずについて行った。次の日も誘われた。二人だけだった。それが始まりだった。話も楽しかったし、何でもできて、何でも知っていた。徐々に大人の男性として惹かれていった。
それまで、異性と付き合ったことはない。男性は父親や六歳上の兄、担任の先生しか知らなかったし、高校も女子校、大学も女性だけの学部で男性はいなかった。大学のダンスパーティーなどで他の学部の男性と話したことはあったが、付き合いに発展したことはない。