【前回の記事を読む】「恋に落ちた」のは16歳年上の妻子持ち男性。猛反対の家族と縁を切るように2人きりの生活が始まったが…

第五話 あなたと私

小学校の教員だった頃の苦い思い出もある。「登校拒否」をしていたことがある。子どもの不登校は今ではよく耳にするが、大人の私にもそんな時期があった。

異動によりいくつかの小学校の転勤を経験したが、中には自分に合わないなあと感じる学校もあった。地域性というか、子どもや保護者になぜか馴染めない。子どもたちが可愛いと思えないのである。朝学校に行くのが憂鬱で気分が重い。雨など降っていようものなら余計行きたくない。

その当時、夫は教員を早期退職してフリーランスになっていた。勤めに行きたがらない私を最初は黙って見守っていたが、回数が増えるとさすがに心配して、勤務先まで車で送るようになった。

強引に連れて行かれて、校門の前で降ろされると学校に行かないわけにはいかない。そんな繰り返しで危機は脱したのだけれど、最低年数の三年間だけ我慢してすぐに異動希望を出した。相性というのもあるのだろうけれど、通勤時間が長くかかる学校でも気持ちよく働けるところもあった。

子どもたちやその保護者たち、教員の同僚、管理職という名の上司、みんなと上手くやっていくことは、どんな世界でも難しいこともあるだろう。長い教員生活、よくがんばったねと自分に言いたい。

私の人生の黒歴史ともいえるのは、四十代から五十代にかけてのほぼ十年間だった。

更年期障害真っ只中。いつ終わりが来るのかも分からないトンネルの中でもがいていた。顔、首、胸にかけてのおびただしい発汗、腰痛、集中力低下に加え一番辛かったのは不眠症状。病院で寝る前の薬を処方してもらい、ようやく睡眠が取れるようになった。

この年代は対外的にも責任ある仕事も任される年代でありそれもストレスだった。そんな生活のあれこれが引き金になり、過敏性大腸炎も併発。朝ちゃんとトイレで用を足して出かけても、通勤途中でトイレに駆け込むことがほぼ毎日だった。通勤路途中にある公園や駅のトイレはよくお世話になっていた。

さらに五十歳の時、脳梗塞の初期の症状を経験した。

ある朝、トイレに起きたら右半身の自由が効かない。夫の通報で来た救急車で近くの病院へ運ばれたが、早期発見だったために点滴を一本しただけで帰された。しかし精神的ダメージは大きく、いつまたあの症状が起きるのかと四六時中心配していた。この時は心療内科のお世話になった。体も精神もズタズタの時期だった。

彼はそんな期間は積極的にあれこれやってくれたわけではないが、黙って見守り受け入れてくれていたのがありがたかった。

更年期障害が重い人は、真面目で几帳面な性格の人に多いという。もっとあっけらかんと過ごしていればよかったのかもしれない。更年期障害というトンネルにいつの時点で入り、いつの時点で抜け出せたのかはっきりしない。でも長く辛い時期だったなあと思う。