そんな私の前に現れた彼と「恋に落ちた」という表現が一番ぴったりだろう。お互いに惹かれ合ったのだが、その当時彼には妻子があり、十六歳も年上であることは後に知った。彼はその当時から離婚を強く望んでいたが、元妻の強い抵抗で話は進まなかった。
いわゆる同棲に踏み切ったのは、出会いからしばらくしてからだった。
それまで私は姉と暮らしていたが、この事実を受け入れてもらえるわけもなく、両親にも知られるようになった。今考えると、両親には多くの心配をかけたものだ。どこの馬の骨とも分からない妻子持ちの男に、まだ若い娘が騙されている。普通の親なら怒り悲しみ、反対するのは当たり前である。当時の私は、周りが見えず彼への想いだけで生活していた。
当時のエピソード。まだ若く元気だった父が「スワッ、娘の一大事!」とばかりに、長岡から東京に駆けつけてきた。当時、小学校の一年生担任だった彼の授業中に、突然教室の扉を開けて直談判。「今後娘さんとは一切付き合いません」の文書に拇印を押させたそうだ。
私は何も知らず後から聞かされたが、父は私に会うこともなくこの証文があれば大丈夫と帰ったという。反対されればされるほど、深みにハマっていくのが世の常らしいが、当時の私は「この人しかいない」という想いが強まるばかりであった。証文はいつしか効力を失っていた。
親兄姉の猛烈な反対に遭い、半ば家族と縁を切るようにして二人で暮らし始めた。六畳一間のボロアパート、風呂なし、トイレ共同。アパートの住人も世の中の底辺にいるような人たちだった。
二人でひっそりと暮らしていたが、彼は養育費としてかなりの額を家に入れていたので、二人の生活は苦しいものだった。給料日前には、スーパーで財布の中身を心配しながら買い物をしていたのを思い出す。その当時、給料は現金支給だった。
生活は苦しかったが、それでも二人で一緒に暮らせることが嬉しくて、辛いとか別れようなどとは一度も思わなかった。歳月が過ぎていく中、何回か住み替えて二人名義のマンションを持つこともできた。
この頃の二人共通の趣味は硬式テニスだった。一緒にスクールに通ったり、シドニーにはラケット持参で行き二人で楽しんだ(詳細は第六話参照)。彼は学生時代に軟式テニスの経験があるが、スクールのコーチと互角に渡り合える腕をしていた。四クラスある中の一番上に彼がいて、私は下から二つ目のクラスだった。
休日にO駅の近くのテニスショップでラケットやシューズ、ウエアーなど見て回るのも楽しかった。店員さんと話が弾み、ついにはガット張り機を家に置くようになるほどの懲りようであった。買い物の後は、安くて美味しいと評判の回転寿司屋でお腹いっぱい食べるのも楽しみだった。二人とも若さがあったなあと思う。そんな楽しい時もあった。
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