【前回記事を読む】芸術としての短編小説に執着したエドガー・アラン・ポーと、大衆のための長編小説を書き続けたディケンズ。二人は正反対のようで…
プロローグ――二〇二×年、夏
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スイーツ、マンガ、特撮、数学、落語、天文学、茶道、宝石、動植物、ミステリイはもとより内外の古典、近現代文学、不動産登記関連の知識から分類不能の雑多な謎知識、おばあちゃんの知恵袋みたいな生活の豆知識まで、あらゆるジャンルを軽々と飛び越え横断する、ルール違反と言ってもいい先生の無尽蔵な博識ぶりには今さら驚きもしない。
博覧強記――いや、博覧狂気と言うべきか、と日々あきれてはいるけれど。
「少なくとも、わたしたちが今考えるようなミステリイとしての前提には、あまり縛られずに読んだほうがいい、ということですよね」
どこまで先生の言葉を理解したのか、自分でもよくわからないまま無理やり話をまとめて、わたしはあいまいにうなずいた。
気がつけばわたしは、『エドウィン・ドルードの謎』の文庫本を手にしたままソファテーブルに戻っていた。結局、先生の誘い水にまんまと乗せられてしまったかたちだ。
いや、目に見えないいろいろなものが手をとりあい、わたしをあの記憶へと向かわせている――すでにわたしは、心のどこかでそんな思いに囚われていた。
燃えるように鮮やかな黄色――ひまわり色のカバーを静かにめくる。
開いたページから、あの夏の陽射しといっしょに、彼女の記憶がこぼれ落ちる。
そう、あの日から何度も季節はめぐり、また、ひまわりの咲く夏がやってきた。そして、わたしは不意に思う。
真っ白な夏雲へと続くあの坂道で、今もひまわりは揺れているだろうか。彼女が今のわたしに会ったら、「ずいぶん変わったね」と言うだろうか。それとも「あのころのままだね」と言ってくれるだろうか……。