幼いころから親兄弟の為に懸命に働いた重太郎は優しい男で顔だちも整っていた。妻のマツエも顔だちといい気立てといい申し分のない女だった。見合いの席で双方とも一目惚れしたため所帯を持った二人の暮らしは正にバラ色の日々だった。更に跡継ぎの重正が生まれると重太郎にとって夢のような幸福感に包まれていた。
だがそんな親子を悪魔はねじ伏せた。
重正が二歳の誕生を迎えると重太郎は舌癌という不治の病に侵され僅か二十九歳の若さで世を去った。
重太郎の父兵吉(ひょうきち)は跡取りの重正欲しさにマツエを重太郎の弟実馬に強引に嫁がせた。実馬は嘉子の母イチノの弟だ。だが彼はマツエ親子をまともには扱わずマツエを「こら、ブタ」と呼び、重正に対する虐待は目に余るほどだった。
しかし、父兵吉はそんな息子をいさめる力は無かった。幼いころから労働に駆りたてられ実子とは比べようも無い扱いをされる重正を実馬の目を掠(かす)め庇い続けたマツエが……。
いつしか嘉子は重正に思いを馳せた。
そこへ法子夫婦がやって来た。
「よこしゃんよう帰ってきたなあ。うちはあんたと重ちゃんの無事を毎日神仏さんに頼みよったとばい。」
彼女もまた嘉子に縋って泣いた。
「嘉子さんお勤めご苦労さんでした。」法子の夫の大下繁好は年長者らしく直立不動で頭を下げた。
「まあ父ちゃんそんなに堅苦しい挨拶せんでもよかろうも。」法子の一言で座は和んだ。
そこへ買いもの籠を提げた長太郎も帰ってきた。
「今日はよい魚が手に入ったけに美味いもん作ってやれや。」
イチノと法子は台所に立った。
やがて夕餉(ゆうげ)の香りが部屋中に立ち始めたころ、郵便局に勤めている弟の学が帰ってきた。