第三部 伊勢湾台風

昭和三十四年と言って忘れてはならない事は、何といっても「伊勢湾台風」だ。この時、僕は親せきのおじさんのところにいて、母は生まれたばかりの聡といっしょに家にいた。

父は会社で立ち往生。最大風速は、確か六十から七十メートルだと思う。ちょうど台風も山場の時、裏口をたたくものがいた。通りがかりの人だった。困っているときはおたがい様。母はその人を中に入れた。

しばらくして、今度のお客はお水。げん関にいっぱいにたまった。やっとの思いでかき出したら、今度は腹が減る。本当にいそがしい。前もって買ってきていたパンでサンドイッチを作った。

その男の人はなかなかいい手つきだったそうだ。食べおえると、まただれかが来た。今度は僕の父だった。おさまったころを見計らって帰ってきた。そのころ僕は、おじさんにだかれて、わんわん大きな声で泣いていたそうだ。

台風がやっと通り過ぎると、父がむかえに来てくれた。見るのもみすぼらしい風景だったと言う。次の日、僕は父に連れられて柴田の千鳥橋のあたりを見に行った。そうしたら、そこの千鳥橋の下には、腹がフグのようにでっかくなっている人や、片手のない人など、いろいろな人の死がいがぷかぷかういている。

名古屋の、とくに南部が、大きなひ害を受けた。そこの様子を父がこっそりとカメラでとったのが、今もアルバムに残っている。あれから一か月。僕は、僕の父の母(祖母)にだかれていた。だかれていたところが悪かった。店の長イス。

そのうち材料屋さん(うちにシャンプーやパーマの材料をもってきてくれるひと)が来て、おばあちゃんが僕を長イスの上に置いて、話に出かけた。僕は下に降りようとして、高さ四十センチメートルぐらいのところから落ちた。そしてわんわん泣いた。

母がかけつけてきた。あやしても泣き止まらない。おかしいなぁと思って右手を見てみたら、右手首の下がペコンと引っこんでいて、そこからぶらんと手首が垂れ下がっていた。母が「これは骨が折れたな」と思い、医者へ行ってくわしく調べてもらった。ついでに治りょうしてもらった。