第一章 こんにちは赤ちゃん

第二部 誕生

昭和三十三年三月三日、ひな祭り。この日は、僕の誕生日の予定日だった。僕の母が六日もがまんして、昭和三十三年三月九日日曜日、午後九時、ついに腹から出た僕は、三千六百グラムと言う、体格であった。

一年半、僕は、すくすくと育っていった。そのころはおいた(いたずら)なんて朝飯前、ふすまばかり破っていた。背が低いので下の方ばっかり破っていたから、とうとう向こう側までつき出てしまったそうだ。

家の二階にはたたみの部屋が二つあって、その一つ、とこの間のある方をお琴のけい古に貸している。お琴の先生は月に二度、となりまちの鳴海からやってくる、父の母(祖母)の昔からの友人の早月さんというひと。早月さんは着物をきこなす、すらりとしたひと。

生徒さんは、うちの近所の女性たち。母は、店の仕事がいそがしいので、お琴の日には僕をそのとなりのたたみの部屋にねかせていた。そういう時は、僕は、泣いたりさわいだりせず、静かにみんなのひくお琴の音を子守歌に、すやすやねていたという。

不思議におとなしくなるので、お琴と相性がいいのかもと思ったという。今でも学校の音楽室でかん賞会があるとねむくなるのは、この時ついた習慣かもしれない。

くわしくは父も母も子どもたちに教えないが、服部という名字は、僕と父と祖母の名字であり、父の父の名字は鈴田という。この父の父であるおじいちゃんは、時々会うぐらいの人である。その辺は、しょっちゅういっしょに旅行する母の父とは付き合い方がちがう。

鈴田さんとは父といっしょに会うが、会えばおいしい天ぷらを食べさせてくれたり、自分の店の赤電話の裏のふたをあけて、ドッと出てくる十円玉の中からキラキラ光ってきれいなものを選ばせて、それを僕にくれたりした。最近は鈴田さんと会っていない。

うちの父が友人からうけ合ったモーテルを安城で経営していた時、手伝ってくれたけい子ちゃんのお父さんのあつしさんも、この人の息子だが、こういう関係のおじさんとおばさんは、あと四、五人いる。

昭和三十四年八月二日、弟の聡が生まれる。ついに僕も兄になった。僕が一才と五か月の時である。僕のアルバムの写真を見ると、サルみたいな顔をしているのでおかしくなった。みんなはじめはそういう風なのかなあと思った。