北側の壁面にあるメニューサンプルの展示棚には木製のナイトカバーが掛けられている。今日もアルバイト生の誰かが店を整えたのだろう。アルバイトを始めて一月ほどだが、街灯に照らされて静かに休んでいる店を見ていると、夏生は懐かしさのような、愛おしさのような気持ちを店に感じた。
「ここが、夏生さんがバイトしている店ね。どんな店かと思ったけど、小さくて可愛いね」
夏生は明後日の金曜日が出番になっていることを告げ、下宿に向かって歩き出した。
「私はね、明日がバイト日なの。数の勉強、量と数字の一致の練習よ。明日はサイコロキャラメルを持っていこうと思ってる。一箱にキャラメル二個入りだから五箱もあれば十分ね。あと、双六作って遊ぼうかな」
ポケットに突っ込んでいた手を引き抜いて、腕組みしながらサオリは言った。街道に入ってから、サオリは明日の家庭教師のメニューを考えていたのかと夏生は思った。そして、サオリが小学三年生の女の子に話しかける様子や、一緒にキャラメルを数えるところを想い浮かべてみた。
天神川の橋を渡ったところに、建物に入り組むようにして地蔵堂がある。近くの菓子舗の方からは甘い臭いが漂っていた。地蔵堂に軽く頭を下げてから少し進んで夏生は立ち止まる。
「ここが俺の下宿。この階段を上ると部屋がある」
「なあんだ。私の部屋と目と鼻の先じゃない。私の部屋はこっちよ」
サオリは夏生の手首を掴むと、西大路通りに平行して走る路地に向かって歩き出した。路地に入ると右手には酒屋が、その酒屋の対面には夏生の下宿がある。サオリは五、六歩夏生を引っ張ると、酒屋の三軒隣に建つ白いアパートを指さした。
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