「ねえ、今何時かしら」

サオリの問いかけに、夏生は腕時計を見ようとつないだ左腕をグッと持ち上げた。手首をクルッと回したところで二人の手が呆気なくほどけた。夏生は腕時計ではなくてサオリを見た。サオリは前を向いたまま、サイドの髪を風に揺らせている。

「安心した? それとも、理不尽だって思った?」ふふふと笑いながらサオリは続けた。

「今夜はね、ここまで。でさ、今何時なのよ」

時刻は午後十一時半を回っていた。下宿に着く頃には日付が変わっているだろう。千本通りを上っていき、二人は細い街道で西に入った。

ビルや商店が立ち並ぶ千本通りに交差する街道は、戦後の昭和を思わせる低い家並みが続いている。大通りが都会の貌に変容していっても、大通りに挟まれた空間は何世代も前からの生活から抜け出そうとしない頑固さを感じさせた。

四つ辻を二つ超えると街道の両側にはちらりほらりとスナックやバーが現れ、紫やくすんだオレンジ色のライトが看板を照らしていた。このまま進めば、もうじき左手に天国飯店が現れると夏生は気付いた。

「サオリさんはこの道を通ったことがある?」

「さあ、どうだか。あまりこの辺は来ないわね。どうして?」

夏生は次の四つ辻にアルバイト先があることを伝えた。サオリはさして興味を示すことなく、緩めのデニムパンツのポケットに手を突っ込みながら歩いている。街道に入って、サオリから空気を感じなくなっていた。夏生に向けられていた気持ちが薄くなり、替わって膨らみ出した何か違う思いを外に出すまいと口をつぐんでいるように見える。

天国飯店が見えた。四つ辻の角で立ち止まって店を見る。北側と西側の壁にある入口の内側には赤い暖簾が掛けられ、近付くと暗い店の中が見えた。