【前回の記事を読む】腕時計を見ようと左腕を持ち上げると、繋いでいた二人の手は呆気なくほどけてしまった。先輩は「今夜はここまで。」と…
二
「二階に窓が二つ見えるでしょ。その向こう側の窓が私の部屋の窓よ。角っこの部屋だから南側にももう一つ窓があるんだよ」
白いアパートの壁を見ながら、贅沢な部屋だと夏生は思った。ひょっとすると、窓からお互い手を振り合う日が、やって来るかもしれないとも思った。
突っ立ったまま街灯に照らされたサオリの顔は青白い。サオリは、灯りを背にして浅黒く見える夏生の顔に浮かび上がる白い目を見て言った。
「ねぇ、夏生さん。あの『みずいろ』の先生、今も先生続けてらっしゃるのかしら」
「さあ、どうだか。もう十年近く会ってないからね。どうして?」
明日の家庭教師のことを考えていたら、「みずいろ」の女の先生に話を聞いてほしくなったとサオリは言った。
どんな子でも、その子に合った方法が見つかれば、できなかったことができるようになり、分からなかったことが分かるようになるはずだ。「みずいろ」の女の子は、「あか」と言いながら赤い印の付いたズックを振り出す練習をしたはずだ。そして、先生たちは彼女にぴったりのパートナーを探したはずだ。だから、彼女はフィニッシュできたのだろう。
「あか」でなくて「みぎ」では足がもつれて途中で転んだかもしれない。パートナーが夏生でなければゴールテープまで辿り着けなかったかもしれない。
あの子が二つの数字を見て、どちらが大きいかが分かるようになる練習方法が必ずある。
私は諦めない。けれど、この先どうしたらよいかさっぱり分からない。「みずいろ」の先生に助けてほしいって気持ちになったけど、あの子を助けるのは私よね。ううん、助けるなんて偉そうだね。サオリは夏生の胸を見つめながら一気に話すと、ふふふっと笑って顔を上げた。
「来週、夏雲で会いましょう。『徒然草』三十二段をレポートするからね。デートについてよ」
「分かった。ぼくも読んでおきます」
思わずぼくと言った自分に夏生はハッとした。歓迎コンパに行くために、河原町四条行きのバスを待っていた時の自分に一瞬にして引き戻されたような気分だ。「舟」でサオリの横に座ってから下宿の前でサオリと別れるまでの時間は何だったのだろう。夏生は再び酔いが回ってきたように思えた。
「じゃあね、おやすみ」とサオリは踵を返して歩き出し、少し歩いて思い出したように振り返った。
「夏生さん、子どもたちに何かを教える時、一番大切なことって何だと思う?」
サオリのシルエットを見ながら、夏生は口を結んでいるほかなかった。その教える子どもたちはどこにいるのか。学校か、塾か、それとも登校拒否で家にいるのか。夏生が腕組みをしたのを見て、サオリのシルエットは一歩、二歩と後退りした。
「一人残らずってことだと、私は思うよ」
そう言い残すと、サオリのシルエットは手を振ってから白いアパートに向かってまた歩き出した。