「ロシアではテレビもその他の報道機関も政府のプロパガンダばかりで、一般の民衆は何一つ真実を知らされていない。若者は海外のインターネットをこっそり見ている。

だが世代間の意見の違いはそれだけじゃない。そもそも大抵の人間は自分の生活さえ安定していたら、主義主張なんかどうでもいいんだ。民主主義より、今日のピローグ(肉饅頭)とウォッカの方がよっぽど大事だ。

でも大っぴらに政府の悪口を言えば逮捕される。徴兵の噂もあった。一旦召集令状が来ると逃げられなくなる。僕は戦争は真っ平御免だったので逃げてきた。モスクワからレンタカーでフィンランド国境まで行き、そこから歩いて国境を渡った。一月半前のことです。

そのころまだフィンランドはロシア人に国境を開いていた。さもなければトルコまで飛ばなければならなかっただろう。危ないところだった」そして彼は付け加えた。「僕の両親はモスクワにいますが、もう三週間以上音信がない」

「ご両親は何をしているの?」とアンナ先生。

「父は大学で経済学を教えています。母は薬剤師です」

「スマホで電話出来ないの?」と私。

彼は首を振った。

「連絡出来てない……奴らはブラウザーをシャッタウトした。或いは両親は当局に捕まるか、監視されていて外部と通信出来ないのかも知れない。自分のせいで危ない目に会っていると思うといたたまれない気持ちです」

アンナ先生は「アメリカもロシアも大国は自分勝手なことばかりする」と言った。「ニューヨークのメトロポリタン劇場は今一番熟れ時のロシア人のソプラノ歌手を締めだしたけれど、芸術を政治で締め付けるのは正しくないわ」というのがアンナ先生の意見だ。

彼の告白を聞いて、私もアンナ先生もボリスにすっかり同情してしまった。少なくとも私はその話を聞いてからボリスのことを能天気な正体不明の居候と決めつけることはしなくなった。