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第一章
ストレーザ点描
アンナ先生はカルチアーノの司祭がなぜそんなことになったのか後で考えてみたという。
丁度ストレーザの教区司祭が高齢で亡くなり、交代時期だった。ドン・シルビーは小さな村から隣の国際的な観光地を抱える教区、ストレーザに転籍を願ったが、かなわなかったのか? ベルガモの名門出身の彼に取ってカルチアーノはあまりにも粗末な任地だったのか?
でもカトリック教徒でない私には、神父の独身主義にそもそもの問題があるのではないかと思えるのだ。人が信ずる宗教の故に一生独身を強いられるなんてどう考えても不自然だ。独身主義のせいで現在イタリアでは神父や尼僧のなり手が激減している。
人は所詮弱い者である。病や苦しみ、悩みに遭遇した時にその悩みを聞いてくれるパートナーがおらず、孤独から魔がさして、一時の享楽に慰めを求めたくなるのは人間誰しもあることではないだろうか。
それでも法王庁は聖職者の独身主義を今も守り通している。もしそれを解禁して神父も妻帯を許したならば?――それはもはやカトリックではないというのだ。大いなる矛盾でありながらどうにもならない問題なのだ。
私がドン・シルビーはその後どうなったのかと尋ねると、アンナ先生は頭を振って肩をすくめ、「ドン・シルビーのために祈りましょう」と言った。
私もその司祭さんの為に祈りを捧げることにした。
ある時さりげなくどうして別荘を売りに出すのかアンナ先生に聞いてみた。すると、「別荘を売りに出してなんかいない」という意外な返事が戻ってきた。
それなら何がきっかけでボリスは先生と知り合ったんだろうか? とんちんかんな質問をして恥をかいた。
でもボリスはイタリア語が下手だし、こっちは英語がさほど流暢でもないので、私の聞き違いかもしれない。そのことをボリスに聞こうと思ったけれど、少しの間ボリスと会うチャンスがなかった。そうこうする内に時間が経過して、その次に彼を先生の家で見掛けた時にはそんなことはどうでもよくなっていた。
イタリア人に道を尋ねても全く別の方向を指さしたり、自分たちはちゃんとしていると言いたげな北イタリア人でさえ、時間を守らない人は結構いる。ここはイタリアだ。細かいことに文句をつけたり、自分と関わりのないことを詮索するのは馬鹿げている。