滋賀県を四分して地区予選がある。私たちの中学は何度も予選を突破していたが、滋賀県一にはなったことがなかった。
2年生の秋、私たちのチームは米原まで遠征した。遠征とは大げさに聞こえるかもしれないが大津は滋賀県の南部、米原は北部に近い。SLの列車で出かけた。東海道線が全線電化されたのは私の記憶ではそれから3―4年後の、高校生時代の話である。
それは私たちのチームが滋賀県の決勝戦を戦うためであった。試合はさすが決勝戦、両チームのピッチャーが好投し無得点のまま後半戦に入った。とそこで我らがエースI君が3塁打を打った。I君はエースでありかつ4番を打つ強打者であった。わがチームの監督は数学のN先生だった。
そこで監督はスクイズのサインを出した。しかも3バントスクイズである。サインは簡単でベンチから〝三遊間に打て〟と声を出すことだった。皆で〝三遊間に打て〟〝三遊間に打て〟と大声を出した。打者も理解してスクイズを成功させた。
そしてその一点を守り切って滋賀県で優勝したのである。わが校としては初優勝だった。終わった瞬間全員の喜びが爆発した。うれしい、うれしい、うれしい、心の底から喜びがわき幸せになった。
再び列車に乗って凱旋した。学校に帰り着くと校長先生が待っていてくださった。そして校長室の前の廊下に全員が並んでジュースをコップに注いでもらって乾杯し祝福してもらった。
ついでに言うなら当時のジュースはサッカリンかズルチンの甘味料入りだったと思う。とこんなことを70年以上たった今でも私の人生の中でうれしかった事の上位として思い出すのだ。
粟津中学の前を過ぎると膳所城の跡、膳所公園が見えてくる。そこまで行く真ん中あたりに昔は御殿ケ浜水泳場があった。文字通り膳所の殿様ゆかりの名前だろう。中学の時そこを起点とする遠泳大会があって私も参加した。
この辺りでは琵琶湖もまだ狭く対岸まで一キロあまりである。それを往復するコースだった。私は野球部であまり水泳はやらなかったが、子供の頃瀬田川を渡って往復するのが夏休みの楽しみな日課で水泳には自信があった。
が泳ぎ終わって陸に上がるときに重力を感じてふらついた。相当くたびれたなと感じたことも思い出す。しかし今は琵琶湖が汚れ水草が繁茂して泳ぐことはできなくなった。
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