中堅教師の頃の思い出

今から30年以上前、1985年生まれの長男と、1988年3月生まれの長女が、旧牛堀町 (うしぼりまち)(現来潮(いたこ)市)内の保育園でお世話いただいた頃のことです。

妻は旧潮来町(いたこまち)内の小学校に、私は旧神栖町(かみすまち)(現神栖市)内の中学校に勤めていました。

妻は娘を出産後、産休3ヶ月・育休9ヶ月が明けた年度始まりから学校に復帰し、娘は3歳の長男とともに、1歳になった直後から保育園でお世話になりました。

当時は、学校に迷惑がかかると、育休は長くても数ヶ月で学校に復帰しました。法的にも今のように3年までは取れず、1年が限度でした。

夫婦ともに中堅教師となっていましたが、私は小さな小学校から地域でも有名な荒れた中学校に転任し、赴任後3年目32歳にして6学級220人の2学年主任を任されました。

いちばん問題行動の多い生徒の集まる柔道部の顧問でもあり、それらの対応も多く、帰宅が夜9時以降になることがほとんどでした。

妻は、朝一番の7時30分頃に子どもを保育園に預け、午後6時か7時にならないと迎えに行けず、いつも最後のお迎え。園長さんの自宅に迎えに行くことも少なくありませんでした。

当時は、土曜日も午前中は学校があり、土曜日の午後と日曜日の午前中も部活があったので、休めるのは日曜日の午後だけです。妻に家事の時間をつくるために、子どもたちを部活に連れていき、柔道場の隅で遊ばせていました。

今との大きな違いは、市町村によって保育園の受け入れ条件が大きく異なり、潮来町在住では、幼児2人の保育料は9万円を超え、当時手取り15万円前後の給与だった家計を大きく圧迫していました。

財政の豊かな神栖市在住なら、一人1万円の保育料で、預けられたのですが、どう考えても、潮来町在住ではもう一人育てることは無理でした。幸い(?)忙しすぎて、お金を使う時間もなく、なんとかやってこれたと振り返ります。

2019年からの「幼児教育・保育無償化」や、「児童手当」などで、教員の経済状況もかなり改善はしましたが、職場のブラックな状況は今も当時とさほど変わりなく続いています。教員を増やすなどして、なんとか学校現場の指導環境の改善を図ってほしいものです。