この頃から、私の夢に対しての漠然とした思いが募っていったのであった。自分の夢は何なのだろうか、とも思っていた。そして、伝記に出てくる主人公は苦労して夢を成し遂げていることに気がついた。

人生というのは、予想もしない出来事に遭遇する。苦しいこと、危険なこと、壁にぶつかった時や、いざという時に、勇気を持って立ち向かい、努力を重ねることで、自分の人生を切り拓く―この生き方そのものが自分にも共通しているように思った。それに加えて、目には見えない不思議な運命のからくりと導きがあったのである。

父と母は、決して豊かとはいえない生活の中で、勉強の他に少年野球リトルリーグ、書道、算盤、小堀流踏水会水泳、中学進学塾と数々のチャレンジをさせてくれた。

父の低い収入から習い事の費用を捻出する母のやりくりには感心するのである。父母が叶わなかった夢を一人残った息子には何とかしてやりたいとの一心だったのではないかと思われる。この習い事の中から将来の道が拓けるのではないかとの期待もあったのではないだろうか。

真面目な父は、少々の病気ではほとんど休むことなく、遅刻することもなく、突然の出張にも文句も言わずに、柔軟に対応する模範的なサラリーマンであった。

我が家には、お中元とお歳暮の時期には、多くの品物が届いていた。夏休みには、ビールが多く、フルーツ缶詰やサイダー、ジュースといった飲料類などが山のように小さな家の中に積まれていた。

子供だったので嬉しさのあまり勝手に中身を空けてしまい、父に烈火のごとく叱られた記憶がある。何故かというと、貰ってもいい相手と受け取ってはいけない相手があるらしく、賄賂とまではいかないのに、とても厳格であった。

母は父のそういう融通の利かない偏屈なところが嫌いであった。給料が安いのだから、そのくらいは貰ってもいいのではないかと思っていたようである。

向上心の強かった母は、短歌や俳句の会、そして和裁の勉強に出かけるのを楽しみにしていた。安月給の中でもやりくりして、常に文化的生活の向上を目指していた。

「三種の神器」といわれていた電化製品もいち早く「月賦」(現在のローン、クレジット)で揃えていた。しかし、最も欲しかった電話だけは高額債権の関係で無理だったようである。

父は月賦が増えることをとても嫌っていた。当時建設が始まった団地へ移る為に必要な府営や市営住宅への申請すら、母が懇願してもどうしてなのか渋るのであった。

このように、些細なことから父母の価値観は相違していたのである。これが後に「性格の不一致」という名目となり離婚したのだと思われる。

しかし、私はこの父の真面目さと、母の向上心をバランスよく受け継ぎ、あらゆることに直面しても慎重に、かつ前向きに対応できるのは二人のおかげだと感謝している。これが、後に夢実現の原動力となったのである。

 

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