【前回の記事を読む】世界大恐慌の中、工場へ勤務。しかし水俣病で一家の世帯主を失ってしまい、途方に暮れてしまうように……。
1 生い立ちから幼少時代
一方、母静子は、昭和6年11月1日に熊本県菊池郡七城村(現在は菊池市七城町)で中本家の長女として生まれた。父親の一義は頑健だったそうだが、静子が4歳の時に、警士として赴任していた満州国(現在中国東北三省、遼寧、吉林、黒竜江)において27歳の若さで不慮の事故で亡くなっている。
奇遇にも父方母方の世帯主の不幸が昭和10年に起こっている。幸いに母は勉強ができたので、父親を失ったにもかかわらず、祖母のチジュが働いて何とか女学校には進学することができた。
女学校の5年間が母の青春であり、生きる支えとなっていたようである。しかし卒業を迎える頃に、育ててくれた祖母のチジュが急逝した。一人ぼっちになった母は、父を亡くした4歳の時に別れた静子の母(美都子)がいる滋賀県大津市の親戚の家に身を寄せた。このように、私の両親とも戦争の時代とはいえ、不遇の青少年時代を送ることとなった。
1945年に太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦を迎え、京都市山科の紡績工場にそれぞれ就職した。そこでの出会いにより、結婚したのであった。そして、敗戦からの貧しい時代を経て、復興の兆しが見えてきた頃に、私を授かった。
私が誕生した後に授かった3人の妹弟は死産してしまい、結局は4人の子どもの中で私だけが育つことになる。このような中で、私は健康面では何も問題なく、生まれて来ることができただけで幸せであった。もしも私が亡くなるようなことが起こったらすべてが消えてしまうのである。
こうして、両家と両親の希望は、私に託されたのである。健康には何の問題はなかったのだが、5歳での怪我が命の危機となった。ちょうどその頃に、父親の明にも夜な夜な夢で魘(うな)されて、苦しさから飛び起きるという現象が何度も起こっていた。
父母は、明の父兵松と母アサノの墓に一度も墓参していなかった。そのことが気がかりだった母は、直感で不審に思い、水俣チッソ近くの親戚を探し当てて、複数回の手紙のやり取りで問い合わせたところ、祖父母が埋葬された場所が国道建設により道路の下に埋まってしまうことを知ったのであった。水俣病で若くして亡くなった祖父の兵松と祖母のアサノは、お骨になっても危機に遭遇していたのである。