【前回の記事を読む】「この子は運がいい、あと1〜2cmずれていたら…」と医師に言われた「運がいい」という言葉が今でも脳裏に残っている
1 生い立ちから幼少時代
それではここで、両親の生い立ちについて触れる前に、著者の先祖の系譜を次にまとめる。

父方の元(はじめ)家は、鹿児島県出水郡長島村(現在長島町諸浦)で代々寺であったと聞いている。残っている戸籍には、江戸末期の先祖である兵八が、明治の初めに、袈裟次(けさつぐ)を鹿児島県冷水町(現在出水市冷水町)の冷水家から婿養子として迎えて、長女の波津との婚姻を結んだと記されている。
袈裟次には寺を継いでもらって、波津との間に長男伊助と次男小次郎が誕生している。恐らく寺は長男の伊助が継いだものと思われるが定かではない。次男の小次郎には、鹿児島県の吉田家から、母親と同名の波津が嫁いだと記されている。そして、長男の兵松が誕生した。
兵松は、熊本県天草の西川家の娘アサノとの婚姻を結んでいる。私の父の明は、兵松の長男として大正13年4月1日に生まれた。生まれて間のない昭和初頭の日本は、1929年にニューヨークウォール街から発生した世界大恐慌の影響により、昭和恐慌の経済苦の時代を迎えていたといわれる。
失業者が続出していた中で、明治41年から水俣工場で石灰窒素を製造していた日本窒素肥料(現チッソ)には、多くの人々が就職を決断した。兵松もチッソに職を求めて、家族で長島村を離れた。
ところが、現チッソの社員として工場で働きながら、毎日のように水俣湾で釣った魚を食べていたところ、頑健な身体であったにもかかわらず腎臓に水銀がたまり、腎臓破裂で昭和10 年に急逝したと聞いている。まだ35歳の若さだった。幸いか他の家族は発症しなかったが、当時は原因不明の奇病とされていたのである。後になって「水俣病」が発覚する。
記録では、水俣病の第一号患者が出たのは昭和28年12月となっている。なんと祖父兵松が急逝してから18年後のことである。
当時のチッソの記録では、1932年(昭和7年)〜1968年(昭和43年)にわたりメチル水銀を無処理のまま海に垂れ流していたのである。水俣病がクローズアップされてきてから、工場排水がいけないと企業側が気がついて手を打ったのが昭和34年、その一カ月前に熊本大学の学者が水俣病の原因は水銀だという発表を行って、世間が騒然となり、有機水銀と無機水銀の違いについて企業側からの激しい反論が翌年に出たのである。