すなわち、病人の身体にあるのは有機水銀であり、工場が捨てているのは無機水銀だから関係ないという主張であった。この有機水銀は1912年(大正元年)頃からドイツで殺菌剤として使用され、農作物の種子の消毒用として、水俣病で有名なアルキル水銀が1930年(昭和5年)に登場している。
その工場排水は無機水銀との主張に対して学者たちは、工場の中で無機水銀が有機水銀に変化するといって、昭和37年に反撃に出たのであった。しかし、昭和38年には誰もが確認して、5年後の昭和43年に、当時の園田厚生大臣が、水俣病を公害病と認定したのであった。その年には、水銀農薬の散布もようやく禁止となった(有吉佐和子著『複合汚染』1975より参照引用)。
その後、世帯主を失った元家は、一家路頭に迷うこととなる。家族はもちろん、兵松の母波津は、息子の若死を嘆き悲しみ、途方にくれていたのだが、残された家族の身の振り方を何とかしなくてはならないと立ちあがった。
明の幼い妹の実子と姉のツマノは、母アサノに託して、熊本県天草のアサノの実家である西川家に一時転居することとなった。家族は離散したのであった。残された家督相続者を守らなければならないという気持ちと同時に、中学進学も断念せざるをえない孫を不憫に思った波津は、当時、日本の統治下で総督府のあった朝鮮に13歳の明を連れて船で平壌に渡ったのである。
波津と明は無事に平壌には着いたのだが、探し求めて辿り着いた親戚も頼りにならず、朝鮮での生活への希望も失望へと変わっていったのであった。ここでも明は中学には進学できず、青年学校と称する機関に通って、徴兵される18歳までの5年間は、極寒と食糧難に耐えて下働きをするという生活を送っている。その結果、明を守ってくれた祖母の波津が病に倒れて亡くなっている。
波津は、朝鮮京畿道で荼毘(だび)に付されて埋葬されたと聞いている。よくぞ父明を徴兵される一人前になるまで守ってくれて、元家の血統と命を私まで繋いでくれた曽祖母の波津に感謝の気持ちでいっぱいである。
ただ残念なのは、京畿道の役場に昭和18年4月17日に波津の死亡届を明が提出したまでは判明しているが、埋葬地は不明であり、墓参は叶わないのである。
しかし、曽祖母の生命は、その後75年の時を経て、私の息子が水俣に赴任し、その長女が4月17日の波津の祥月命日に水俣の地で生まれたことで、兵松没後80年の時を経て、水俣市役所に、元家の子孫が出生届を提出することができたのである。とても不思議な縁を感じる
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