私は、その翌年に両親とともに、九州に家族で旅行をしている。記憶では、長い列車での移動から解放されて、ようやく上熊本駅に降り立ち、菊池の母方の親戚宅に辿り着いたことを覚えている。
そして翌日には、水俣を訪問して、道路工事で埋まってしまうところの兵松とアサノの遺骨を拾い上げることができたのであった。間一髪でアスファルトの下に埋もれてしまい、遺骨は永遠に掘り出せないところであった。
祖父兵松の死後25年目のこの危機を救ったのは、母静子の直感と粘り強い対応であった。その後、両親は離婚し、母は家を出ていったが、母のこの行動に対しては、元家の一人息子として、感謝したい。
私の6歳時の記憶は、朧気(おぼろげ)ではあるが、水俣病発覚当時のチッソの工場へ寄ったことと、水俣に初めてオープンしたレストランで、カレーかハヤシライスを食べたこと、それから、祖父母の遺骨を船で天草に運んで埋葬したことを覚えている。
そして、夜行列車で京都に帰ったのであった。滞在期間については、かなり長期間であったようである。この旅は、元家にとって、とても重要な価値あるものであった。その後、父は睡眠時に魘されることもなく、私の頭の怪我の後遺症も軽減していったのであった。
そのような中で、医師に言われた「運のいい子」という言葉を支えに、神様、氏神様、ご先祖様への切実なる想いは強くなっていった。母は、頭の怪我以来、一人っ子を守らねばという用心深さが、一段と強くなっていた。
その影響を受けたのかはわからないが、後になって無鉄砲になりがちな青年期に訪れる危機に対して、自分でもブレーキがかかり、何度か助けられたのであった。結局、この怪我により幼稚園は、小学校入学まで1年間だけ通うこととなった。
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