【前回の記事を読む】寮生活のルールはまるで“軍隊”…早朝に上半身裸で集められランニング。食事は質素でご飯は腐りかけていた。

4 怒涛の高等部時代

海軍兵学校式スパルタ教育との出会い

朝の寮生活で一日が終了した感があったが、午前8時30分から学校の始業であった。学校は寮とは別世界であった。先生方は文化人に思えた。寮の舎監たちは授業には登場しなかった。寮長や室長たちは学年が違うので、主に同級生だけの学校生活であった。

男子だけの世界であったので連帯感が培われた。女子がいないのは寂しいと思われるが、かえって気を遣うことなく快適であった。共学もいいが男子校もいいものである。

学科については、文系を志していた自分には関心が湧かなかった。理系科目と工業電気専門科目が主で、普通科高校とは違う独特のカリキュラムで、私には関心のない科目が殆どであった。残念だったのは、英語、国語、地歴公民(日本史に限定)といった科目の履修時間数が少なく、文系移行する際にネックとなることである。

特に工業英語では中学英語からの実力アップが望めないのである。しかし、関心のない科目でもある程度の成績を収めなくてはならない。そこで私は子どもの頃からの学習パターンを崩さなかった。そのおかげで何とかその後の進級もクリアできた。決して成績優秀とはいかなかったが、小学生の時に培った習慣というものの大切さを痛感した。

このような生活の中で、父が心配だったので、外泊許可をもらって実家に帰るようにしていた。

父は、私の入学に合わせて転職をし、学校に近い大阪梅田の百貨店に、往復2時間かけて山科から毎日通勤していたのである。息子のことが心配での親心ゆえの行動であったのだろう。この気持ちは、自分が父親になってみてわかった。息子が同じ境遇だったら、私も同じことをしただろうと思う。

父とは、梅田で午後6時に待ち合わせて、食堂街で夕食をご馳走になり、阪急電車で京都四条で下車して、京阪電車に乗り換えて山科に帰るというパターンであった。そして翌日の日曜日の夕方には寮に戻るという短い滞在だったが、必ず別れ際には父は手を振って送ってくれた。

父は通勤と仕事で疲れているのか、ますます痩せていたので、心配で後ろ髪を引かれる思いで別れたことを覚えている。