その心配と胸騒ぎは的中した。父の病気は胃潰瘍から胃がんに進行していて、一人暮らしの中で倒れてしまった。幸いに手術をして命は助かったのだが、心配だった入院と退院後の生活は、父の姉である伯母が助けてくれた。15歳の自分には為す術がなかった。もし、父のもとから私立の仏教系の高校に通っていたとしたら、どうなっていただろうと思った。
とにかく、自分としては、父親の期待を裏切らないように、今の環境で頑張るしかないと思った。今の状態で退学して、父のもとに帰ったとしても共倒れになってしまうからである。こうして、私の学校と寮生活は、何もなかったように続いていった。
思想への目覚め ―文豪三島由紀夫の死―
父のことも心配ではあったが、気持ちを切り替えて現実の生活に戻った私は、部活に入るか入らないかといった些細な問題でも悩んでいた。運動部では軟式野球、文化部では茶道かフォークソング同好会に惹かれた。郷土出身の有名人である北山修と杉田二郎、滋賀県出身の岡林信康の曲が好きだったことでフォークソング同好会に入った。ここでも体育部を選ばなかった。
野球には未練があったが、いざという時に備えて、独学で空手を密かに練習していた。本を見て型の理解はできたとしても、組み手実践がないと上達は実感できなかった。しかし、そこでも体育部に入らなかったのは、中学時代と同じく体力的に自信がなかったのだろう。
結局、フォークソング同好会に入ったのは、同好会という自由な感じが性に合っていて、流行りの音楽に惹かれたというよりも、この3人の深層にある文化的潮流に惹かれたのだろう。その理由の一つは、子どもの頃に、我が家には精神分析医フロイトの全集があり、歴史への関心と共に、心理学にも興味を抱いていたことにもよる。ただ医学部には進学できないとの自覚はあった。
その点で北山は、府立医大の医学生で精神科医を志した秀才であり、杉田は平和へのメッセージである「戦争を知らない子供たち」をヒットさせ、プロテスタント派の教会牧師の家に生まれた岡林は「差別」をテーマにした曲を作り、大学の神学部に進んでいた。この3人は思春期の私の心に影響を与えた人たちである。
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