孫文は清朝打倒を叫んでおり、清朝の実力者袁世凱に銃口を向けている。従って袁世凱にすれば、孫文の存在こそが目の上の瘤(こぶ)であり、孫文の命を求めて刺客を使うであろうことは、孫文本人の認識するところであり、滔天夫妻もかねがね覚悟するところであった。
その後孫文の首には、清朝より賞金一千元が出されていたという説も流れている。
孫竹丹の訪問で取次ぎに出た槌子叔母は、急いで茶の間に引き返して、滔天にその旨を伝えた。滔天は隣室にいた龍介を呼んだ。そして龍介に言いつけた。静かな、太い声であった。
「龍介、孫さんを連れて、急いで裏門から出ろ!……二、三時間孫さんと散歩してこい。帰りは遅いほどいい」
そして龍介に十銭玉いくつかを握らせた。父滔天のこういう仕草には、既に訓練された感覚を持っていた龍介であったろう。
孫文は何事かとびっくりした顏つきだったが、龍介は孫文の手をとり、「散歩……散歩、散歩」と言いざま、孫文を強引に引き立てた。
孫文は龍介の案内するままに、台所口から裏木戸をくぐり抜けて外に出た。孫文は浴衣がけに草履(ぞうり)、龍介は学生服に下駄履きであった。
太陽は西に没(ぼっ)したばかりで、点々と見え出した星空に、七十五年振りに地球に接近したという素晴らしい彗星が、東の中天に長い芒光(こうぼう)の尾を引いていた。
龍介は家の近くの白山神社の境内の、大きな石に孫文の腰を下ろさせて自分もその傍に蹲(うずくま)った。そして孫文も龍介もしばし黙り込んで、彗星の奇怪な姿を見上げていた。
これが彗星というものか? ハレー彗星出現と新聞などで書き立てていたのはこの星か? 龍介の頭には孫竹丹という怪しいお客さんのことなど忘れていた。
龍介はやがて口を開いた。旅疲れの孫文の気慰(きなぐさ)めとでも思ったのだろう。
「孫先生、この彗星が今夜出たのは、素晴らしい星占いではありませんか? 孫先生の革命成功を予言しているのではありませんか?」
これを聞いて、孫文はいかにも満足気に笑顔を作って、龍介の頭に右手を乗せて、黙ってハレー彗星に眺め入っていたという。
ちょうどその年、その日、その時に、私は熊本の田舎の畑の中で、兄と二人でこの彗星を眺めていたのだ。
孫文と龍介が家に帰ったのは十時近くであった。家には孫竹丹という訪問客はいなかった。帰った後だったという。
注1)宮崎槌。滔天の妻。夏目漱石の小説『草枕』のヒロイン「那美」のモデル前田卓(つな)の実妹。槌子とも呼ばれた。
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