【前回の記事を読む】「さてはレンタル彼氏でしょ?」自信満々に聞いてきたけれど、それは彼女の大きな勘違いだった!
人生の切り売り
五 喪失
ソファで読書にふけっていた私はページをめくる手を止めた。
「これ、本当に私が書いたの……?」
それまで手掛けていた小説を編集部に送りつけ、案だけ出していたレンタル彼氏の話に取り掛かろうとした。なかなか筆が進まないこともあって、改めて映画化予定の前作を読み返してみたのだが。
まるで身に覚えのない話だった。いや、なんとなく記憶してはいるけれど―。
「実感がないって感じかな」
「……え?」
「ホントに君はよく書くよ。だから今回もきれいに売れた」悪魔が、じっとこちらを見下ろしている。
「そろそろ僕に泣きつくかい?」
「……あなた、私に何をしたの?」
「君の願いを叶えただけだよ」
彼はまた美しく微笑むと、私が読んでいた小説を取り上げた。
「僕はただ、君が望むまま君の人生を売りさばいた。君の小説を使って」
手にした本をローテーブルの上に捨て置き、彼は私の右隣に腰を下ろした。その左手が背後から私の左肩に掛かる。おもむろに身体を引き寄せる行為は、一見抱擁だが愛情など欠片も感じさせない拘束だった。
「だから君の人生の恋とか愛とかそういったものは、全部売り切れちゃったんだよ」
「売り切れた……?」
「そう。君が経験して得たものは、文字に起こして売りに出されることで君の中から消えていくんだ」
耳元でささやく声に、頭が真っ白になった。
「記憶がなくなった分は都合よく補完修正していたみたいだけど、そこには実感が伴わない。もう自分で書いた小説のどの部分が事実でどの部分が創作か、見分けがつかない状態だろう?」
彼の右手が私の胸元に触れた。途端に、サッと全身から血の気が引いていく。まるでその冷たい掌に、心臓まで絡めとられてしまったようだ。
「恋人が消えた喪失感を埋めてくれるレンタル彼氏か。今の君にはお似合いの設定だけど、恋をしたこともないのに失恋なんて書けるの?」
「何言って―」
「満たされていた時の記憶はとうに売り払ってしまった。それは生まれてこのかた恋をしたことがないのと実質的には同じことだ。君の心は最初からずっとがらんどうのまま、失う余地さえなく生きてきた。そうだろう?」
「そんな馬鹿な」
反射的に否定したものの彼の言葉が図星を指していることに気付く。自分が今までどんな恋をしてきたのか、それをどう感じていたのか、一切思い出せないのだ。まるで初めからなかったかのように。
「……でも、書かないと。せっかく映画化されるって藤島さんが」
「この期に及んでまだ書きたいんだ。さすが、悪魔とこんな契約を交わすだけはある」
その指先がゆっくりと胸から首筋、頬を辿り、最後に唇に触れる。