「ならもう、全て僕に委ねてくれないかな?」
「え?」
僅かに残った思考回路を溶かしていくように、悪魔は甘く、優しく声を響かせた。
「君の望む通り、死ぬまで小説家を続けさせてあげるよ」
「ダメ……ダメだって……」
あんなに突っぱねていた誘惑に、空っぽの心が、初めてぐらついた。
喫茶店での待ち合わせは失敗だった。何故って相手の顔をはっきりと覚えていなかったから。それでも彼が声を掛けてくれ、なんとか向かいの席に座ることができた。
「久しぶり、あすみちゃん」
「えっと、お久しぶりです。掛橋さん」
掛橋護さんは、想像した通りの優しい笑顔を見せた。
とりあえずオーダーを済ませようとして、また一つミスをする。
「俺、コーヒーはちょっと」
「ごめんなさい。……あの、私もしかして前に」
「ばっちりネタにされたね」
忘れたことがばれるのではと、ドキドキしてきた。脱いだ上着をキュッと抱え込み、懸命に話をつなぐ。
「今日は突然お呼び立てしてしまってすいません」
「……それは別に構わないけど」
訝(いぶか)しげな「けど」の先が気になって続く言葉が出てこない。まごついている私に代わって、彼の方が口を開いた。
「しかしあすみちゃんは売れたよね。おかげであの小説は俺のことだって、ちゃんと自慢できるようになったよ」
「自慢……ですか?」
「いや、未練がましいのは良くないって分かってるし、次の恋愛をする気が全くないわけでもないんだけど」
自分のことのように嬉しそうな顔して褒めてくれたかと思えば、今度は自嘲めいて苦笑する。くるくると表情を変える掛橋さんは悪い人には見えない。最近ずっと得体の知れない笑顔に振り回されていたから、余計にそう思う。
「ごめん、俺の話しちゃって」
「いえ。そういう話もちょっと、聞いてみたかったので」
キョトンとこちらを見つめる瞳に、現在進行形の恋人がいることはなさそうだと判断した。
やってきた紅茶を一口含んで、本題をどう切り出すか考える。
すると再び、彼が先に質問してきた。
「もしかしてあの彼と別れた?」
「はい?」
「でなきゃ連絡してこないだろうってのは、俺の都合のいい妄想だったかな?」
都合のいいことを考えていたのは私だ。それを自覚しておきながら、彼の優しさに甘えようとしている。
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