【前回の記事を読む】読書にふけっていた私はページをめくる手を止めた。記憶が曖昧な私に「そろそろ僕に泣きつくかい?」と悪魔が微笑み...

人生の切り売り

五 喪失

「あの、どこから話したらいいのか分からないんですけど……実は私、恋愛というものがよくわからなくなってしまって」

「は?」

「今まで何も考えずに書きたいものを書いてきたのに、急に何を書いたらいいのか分からなくなって。それで、掛橋さんとお付き合いしていた頃の自分はどんなだったかなって」漠然とした説明を聞きながら、掛橋さんはしばらくの間黙り込んでいた。

「……あすみちゃんらしいな」

「え?」

「彼氏と別れたからじゃなくて、小説が書けなくなったから元彼に連絡を寄越すんだ。それも次の小説を書くために」

「ごめんなさい」

「どうして謝るの? あすみちゃんが突飛なこと言い出すの、俺は慣れっこだけど」

だとすれば、自分のことが分からなくなってしまった当の本人よりも、彼は私のことをよく分かっている。

「でも、俺でいいの? 君が書くことに反対してたのに」

「……そうでしたっけ?」

想定外だ。私の小説を読んだと会いに来てくれた男なんて、掛橋さんしかいなかったのに。

唯一頼れそうだった相手から、一番聞きたくない言葉が飛んできた。

「書けないなら無理に書かなくてもいいんじゃない? もう十分書いたってことだよ」

「ちょっと待ってください」

「あすみちゃんは本当に頑張ってたし、今や売れっ子ですごいとも思ってる。でも……ごめん、そういうこと言うから振られたのは分かってるんだけど」勝手に自己完結して、彼はまた黙り込んでしまった。

しかしこちらも背に腹は代えられない。一刻も早く新作に取り掛からなければならないのだ。

「私に書かないっていう選択肢はありません」

「うん、知ってる」

その点は掛橋さんもあっさり頷いたものだから、思わず苦笑してしまった。

「私はこうなる前から書くことしか考えてなかったんですね」悪魔にとり憑かれるわけである。

「こうなる前から」

小さく呟いた掛橋さんは、改まった調子で私の名を呼ぶ。

「あすみちゃん」

「はい」

「俺との初デートはいつ、どこで?」

「はい?」

えっと、確か―。 「仕事が早く終わった日に、新宿の」   

「新宿にしたのは分かりやすい地名を出したかったからかな。実際にウチの会社から仕事終わりで向かうのは無理がある」

淡々と語る彼に、恐怖を覚えた。

「連絡をもらった時から違和感はあったんだ」

「……掛橋さん?」

「そう、まずはその呼び方と敬語。でもとっくに別れてるわけだし、他人行儀になるのもおかしくはないのかもしれない。そしたら今度は、席に着くなり上着を脱いだろ?」彼は私が着ている襟ぐりの広いシャツを指した。

「肩の傷痕はもう、気にならなくなった?」

「それは……」

忘れていた。おそらく細かいところまで書いたネタだし、普段は目に付かない位置にあるから。

「ねえ、本当は何があったの?」

「……書けなくなったのは本当で、だから恋とか愛とか知りたくて」

「だけじゃないだろう?」

全て見抜かれているような気がした。が、今の問いなら否定できる。