「それだけですよ。私が困っているのは新作が書けないことで、だから今更なくなった記憶のことなんか」

「記憶がないの? いつから? 病院とか、行った?」 ―まずい。

これ以上話していてもボロを出すだけだろう。

「ごめんなさい。帰ります」

いち早く席を立とうとしたのだが、すかさず腕を掴まれた。彼の視線が痛いくらいに突き刺さる。

「放っておけるわけないだろう」

「私にとってあなたは赤の他人なんです。全部忘れてしまったから」

「覚えてるよ」

そのまま抱き寄せられるようにして、唇が重なった。ボックスシートの陰に隠れて、掛橋さんが求めてくる。

「俺が全部、覚えてる」私は恋を知らない。

でも、この人に教えてもらったらまた小説を書けるだろうか。

私は掛橋さんの住むマンションを知っていた。全く見覚えがないのに、確かにこの部屋に来たことがあるのだ。

例えば、以前もダイニングテーブルのこちら側に座ったことがあって、その時はキッチンに立つ彼の後ろ姿を眺めていたはずだ。奥の引き戸の向こうに寝室があることも、知らないのに知っている。

「デジャヴってやつ?」

「いや、どちらかというとジャメヴですかね」

「何それ?」

「未視感のことです」

彼がおもむろに小首を傾げる。これほど知名度に差がついた対義語というのも、珍しい気がする。

「私の場合、忘れたといっても知識記憶としていくらか残っているんです。事実と創作がごっちゃになって、余計ややこしいことになってますけど」

それっぽい説明をしながら、この状況がネタとして使えるか考える。

フィクションに描かれる外傷性や心因性の記憶喪失は、デジャヴを布石として記憶を取り戻していくことが多いけど、悪魔と契約してしまった私はジャメヴを通して忘れたことを再認識していくしかない。そこから向かう結末は―。

「あすみちゃん、また小説のこと考えてる?」

「何で分かったんですか?」

「それで散々振り回されたからね」

掛橋さんによれば、私は結構面倒くさい彼女だったらしい。常に小説のことばかりで、自分の世界に引きこもりがちで。

 

👉『人生の切り売り』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】妻の姉をソファーに連れて行き、そこにそっと横たえた。彼女は泣き続けながらも、それに抵抗することはなかった

【注目記事】滑落者を発見。「もう一人はダメだ。もうそろそろ死ぬ。置いていくしかない…お前一人引き上げるので精一杯だ。」