人生の切り売り
一 契約
ハイボールのグラスを空けても私の心は晴れなかった。
自分でも良くないと思いながら二杯、三杯と手を出して、気付けば先程食らったダメ出しについて延々と考えている。テーブルに突っ伏し、ひっつめ髪がぐしゃぐしゃになるまで掻きむしる姿は、傍から見てさぞ「やばい女」であったことだろう。
「失恋の話なんかこの世界に腐るほどあるんだって」
「うん?」
「恋愛より夢に生きる女なんか今時珍しくもなんともないんだって」
言いたいことは分かる。分かるけども。
「だからネタにならないってことはないよね?」
散々こき下ろされた企画書を、私はまだ握りしめていた。未練タラタラの過去を下敷きにしたプロットに、更なる未練が募っていく。
「確かに私の恋愛は特別ではなかったかもしれない。でも、その分リアルで共感できるものを描く自信はあったんだ」
ぐらぐらと重たい頭を持ち上げて、ハッとした。
―私は今、誰と話している?
目の前に知らない男が座っている。シャープで整った顔立ちの彼は、長年私の愚痴に付き合ってきた親友のように平然と相槌を打っていた。
「それで?」
「……だから、却下されようがこのプロットは小説にしようと思ってて」
「君が書くの?」
「もちろん」
反射的に頷いてから記憶を検索するが、やはり見覚えはない。
色白できれいな肌艶は、まだ二十代前半のものではないだろうか。私が言うのもなんだけど、平日の早い時間から安い飲み屋にいて、シンプルな黒のシャツを着ているイケメンはお勤めしている人間に見えない。
初対面のアラサー女にタメ口なのも、社会に染まっていない学生さんだと思った方がしっくりくる。
「小説家だっけ?」
「えっと、はい。全然売れてないんですけど」
少し酔いのさめてきたこちらは、年下相手だろうが丁寧語が交じる。彼がどこの誰であろうと、飲んだくれの愚痴に付き合ってくれるいい人であることは間違いない。
「すいません、見ず知らずの方に。私、神野(じんの)あすみと―」
「ああ、いいよ。そういうのは」
自己紹介をさらりと無視して、彼は尋ねた。
「売れたいの?」
「そりゃ……でも、だからって売れ筋に流されるのは嫌なんです」
「何で?」
「だって」
私は私の小説を書きたい。私の小説で売れたい。この企画書には私の人生が詰まっている。それを「ありきたり」と片付けられてしまうのは、どうしても納得がいかないのだ。
「私の人生、ちゃんと売れると思うんです」
「そうなんだ」
漆黒の瞳がこちらをじっと見つめる。彼は唐突に切り出した。
「じゃあ売ってみる?」