「え?」
「君の人生、僕が売ってあげようか?」
向かいの席に座っていたはずのイケメンが、いつの間にかすぐ隣にいる。今にも触れそうな距離で目の当たりにしても、肌の白さときめ細かさは健在だった。
「どういうこと……ですか?」
「そのまんまの意味」
つやつやした薄い唇が魅惑的な笑みを湛える。
「君は自分の小説を、人生を売るために悪魔と契約する。どう?」
「あなた、悪魔なの?」
「そうだよ」
悪魔的に美しい彼がゆっくりと首を縦に振る。そんなわけはない。学生さんが酔っぱらいをからかっているのだ。
とはいえ、こちらも小説家の端くれだ。その言葉に乗る以外の選択肢はない。
「いいよ。契約しよう」
すると彼は、これまた唐突に口づけてきた。
私を引き寄せる右手は目が覚めるような冷たさで、重ねた唇は火傷しそうなほど熱い。
「契約って、そういうこと?」
「うん。これで君の魂は僕のものだから」
「へえ」
イケメンとこんなに気持ちのいいキスができるなら、悪魔と契約するのも悪くない。
藤島希枝(ふじしまきえ)はおそらく私のことが嫌いだ。だから私も、彼女を好きになれない。
「神野さん、どうしてボツにしたプロットで小説書いてくるかな?」
「すいません」
手入れの大変そうな長い髪を揺らし、姿勢よく座って腕を組み、キンと響く声で威圧する。できる女を装って、いつもただ文句を並べているだけなのだ。
それが証拠に、彼女は目の前に置かれた原稿を手に取ろうともしなかった。
「時間の無駄。こんなもの書く暇があったら、もっとましな企画を作ってきてくれない?」
そうはいっても藤島は私の担当編集者であり、彼女に認めてもらえなければ私の小説はまず書籍にならない。売れる、売れない以前の問題だ。
縮こまっていても仕方ない。と、そっとお伺いを立ててみる。
「あの、読んでみてはもらえませんか?」
「は?」
「ホントに自信作なんです」
データを送るだけでは無視される気がして、プリントアウトした原稿を直接編集部へ持ち込んだ。けれども結局は応接スペースで不毛なやり取りが続いている。おまけに藤島の声はよく通るから、ほとんど公開処刑であった。
私は改めて頭を下げた。
「お願いします」
「あのね―」
襲いかかってくるはずの言葉に身構えたが、それがふと、消えてしまった。
「?」